よく、間違えることを過度に恐れる子供がいます。問題を解いていて、絶対に間違えてはいけないと思っているらしく、ちょっと言っただけでもビクビクしたりして、委縮してしまっていたりします。
あまりに変なので話を聞いてみると、大人が子供に対して間違いを過度に叱っていることが多いです。それで、私が声をかけただけでも、すごくおびえた反応をするのです。
そこで、いつも思い出すことがあります。
私が京都にいた時、イョルク・デームスというウィーンの名ピアニストに声楽の「レッスン」を2回受けたことがあります。その時に、デームス先生が、どういう文脈でおっしゃったかは忘れましたが、
「ゲーテは、ファウストで『努力するものは間違える』と言っている」
というお話をされました。
これはファウスト第一部の最初のほう、「天上の序曲」にある一節です。主とメフィストフェレスとの会話の場面で、主が、
Es irrt der Mensch so lang er strebt.
と言います。手元にある手塚富雄の訳を見ると、
「人間は努力するかぎり迷うものだ」
とあります。irrtという動詞に「迷う」という訳を素直にあてているわけですが、このirrenという動詞には「間違える」という意味もあります。意味に大きな差はないかもしれませんが、
「人間は努力するかぎり間違える」
と訳すのが、私は好きです。
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一番間違えないで済む方法は、何もしないことです。何もしないのだから、間違えようがありません。
ところが、何かをしようとすると、その瞬間に試行錯誤が始まります。間違うことなしに成功することはありません。
語学の勉強がその好例で、間違えることを恐れていては、何もできません。日本語ですらしょっちゅう間違えている私は、外国語では間違いの連続です。口に出してみたり、文章に書いたものをネットにあげてみた後になって、ああ、あれを間違えた、これを間違えた、恥ずかしいなぁ!そんなことばかりです。
学校のお勉強でも全く同じです。間違いを見つけることから勉強は始まります。何が分からないかが分からないと、勉強はできません。正解を教えられて、それをその通り書くことが勉強ではありません。
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だから、間違いを恐れる子供たちに私はいつも言います。
間違いを恐れてはいけない。昔、ドイツのえらい詩人でゲーテという人がいた、知ってるか?知らない?まあ知らなくてもいいけれど、そのえらい詩人が、「人間は努力するかぎり間違える」と言ったんだ、どんどん間違えたらいい、努力している証拠だ。
。。。もちろん、絶対に間違いの許されない場面というものはあります。間違いが許されない、肝心のところで全然ダメだ、そういう気の抜けた話が昨今目につくような気もします。
でも、間違えてもいい場面で間違える経験をどんどんしていかないと、人間、とっても生きづらいんじゃないでしょうか。試行錯誤がないと進歩がないのに、間違えることを許さないで、どうやって進歩していけるんでしょうか。
生きていると、安易な「正解」なんてどこにもないし、そういうものがあるという前提を持つ方がどうかしていると私なぞは思います。
ところが、世間を見回すと「正解」があると信じている人が少なくないようです。「正解」とされるものに頼って、「間違い」を避けた気でいたりする。その「正解」が本当に「正しい」のかどうか、何の保証もないのに。
私は、これまでたくさん間違えてきました。失敗もしました。それで全く満足だとは言わないし、悔しい気持ちもありますが、でもそれが生きるということだろうと思っています。正解だけの人生だったら、随分味気ないでしょうね。
だから、子供たちにも、たくさん間違えて欲しいし、失敗してほしい、そうして前に進んでほしいと願っています。
もちろん、大人たちの方にも、「努力するかぎり間違える」、だからもっと間違えたらいいじゃないか、そう言いたくなる場面がたくさんあるようです。