「現実的」な子供たちと大人たち

私はオペラ講演会の準備のために、まずは取り上げる作曲家の伝記を何冊か読むことにしていますが、そのたびに才能と出自は関係ないことを痛感します。

モーツァルトが宮廷音楽家の家に生まれて英才教育を受けたのは有名な話です。確かにそういう家庭環境だと有利ではあるのでしょうが、そういう人ばかりではありません。

例えばジョアキーノ・ロッシーニは、イタリアの田舎町の生まれで、父親はラッパ吹き、母親は歌手、とはいうものの単に下町の「音楽家」でしかなかった両親がモーツァルトのような英才教育を施したわけではなく、家庭環境としては決して恵まれたものではありませんでした。しかしそういう子供でも、才能を見抜く大人たちが周りにいたので、世に出て大きく羽ばたくことができたわけです。

そういう状況は今でも変わりません。秘めた才能を持っている子供がどこに隠れているか、よく目を凝らしていなければならない。もちろん、子供たちがみなモーツァルトやロッシーニであるわけはなく、特殊な才能があってもなくても、みな等しく平等に幸せになる権利を持っています。ただ、大人の方が子供の可能性を否定したり限定したりすることは極力控えなければなりません。

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普段、子供たちと接していて、彼らの発想があまりにも現実的だと思うことがよくあります。自分で自分の可能性を限定してしまう、きわめて保守的な子供が少なくない。

これも世の趨勢で、大人の世界の反映だと思いますが、これでいいわけがありません。

できるかどうか分からないがとにかく200の目標を立てて実際にやって見て、その結果、たとえ200にならなくても、150になった、100まで出来たという話ならよく分かります。

ところが、平均がだいたい50だから、自分も50くらいできたらそれでいいや、という話になりがちです。

みんなが平均を目指していくと、年々その平均が下がっていき、上がることはありません。50がその時の平均であれば、49でも許容範囲でそれでよくなってしまい、そのほうが楽ですから、次の平均は49に下がってしまいます。

そういう発想で生きている子供が少なくないのは、実際に大人たちがそうなっているからに相違ありませんが、これでは面白くありません。

その時点では無茶なようでも、まずは大きな希望をもって欲しい、そしてその子にふさわしい世界で幸せに生きて欲しいと思います。

そのためにはまず大人が、子供たちの環境整備をしなければならないし、大人も子供たちに負けずに目の前の現実からまずは離れてみる発想が必要になってくるでしょう。

大人が、非現実的であっても200のことを言ってみて行動する。目の前の現実に捕らわれて、否定することをやめる。子供たちのために、大人たちの視野狭窄をどうにかする必要がないでしょうか。

もっとも、こういうことを言うと、現実的でないことを言うなと叱られるわけですが。。。

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