文部科学省は学校で「マスクはもういらない」と言っている

文部科学省は、学校では「マスクはもういらない」と言っています。これは、児童生徒の判断に委ねる、という意味合いよりも積極的な姿勢を打ち出したものとして、私は大いに評価しています。

しかし、これが先生や保護者の方たちに伝わっていないように思うので、ここに紹介します。

文部科学省の「最近よくあるご質問にお答えします」というサイトです。

ここに何と書かれているか。

Q 新学期の学校におけるマスクの着用については、児童生徒や保護者の判断に委ねられるのか。(令和5年4月5日更新)
A 本年2月の政府対策本部決定において、マスク着用の考え方が見直され、学校教育活動の実施に当たっては、4月1日以降、「マスクの着用を求めないことを基本とする」とされました。

今般の衛生管理マニュアルの改定は、この本部決定を受けたものであり、文部科学省としては、教職員や児童生徒間のコミュニケーションが円滑となり、充実した学校生活にも資することから、児童生徒のマスク着用は不要と考えています。

基礎疾患があるなど様々な事情により、感染不安を抱き、マスクの着用を希望する児童生徒もいることから、そういった者に外すことを強いることは適切ではありませんが、基本的には、新学期における学校生活においては、学校や教職員からマスクの着用を求めることなく、引き続き着用が推奨される特定の場面を除き、児童生徒がマスクを外して学校生活を送ることができるよう、児童生徒や保護者に対して丁寧な情報発信をお願いします。

「マスクを外すことを強いることをは適切ではない」としながらも、「児童生徒がマスクを外して学校生活を送ることができるよう」にすることが主眼になっている書きぶりで、

明らかに文部科学省としては、

「児童生徒はマスクを外して欲しい」

という立場を明確にしていると理解できます。

また次の質問では、

Q 「感染リスクが比較的高い学習活動」の実施に当たって、一定の感染症対策を講じることが難しい場合に、マスクを着用することとして差し支えないか。(令和5年4月5日更新)
A 文部科学省としては、教職員や児童生徒間のコミュニケーションを円滑にし、充実した学校生活にも資する観点から、児童生徒のマスク着用を不要とするための取組をお願いしたいと考えています。

児童生徒が安心してマスクを外すことができるよう、学習活動の実施に支障のない範囲で、対応可能なマスク以外の感染症対策の実施を検討するようお願いします。

「マスク以外の感染症対策の実施を検討するようお願い」するという念の入りようです。

つまり、

まだマスクを着けるように指導している学校は論外、それどころか子供たちがマスクを外して学校生活を送ることができるようにしろと言っているわけです。

この文部科学省の考えがもっと徹底されなければならないのではないでしょうか。

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大人は子供たちにまず謝罪するべきではないのか

卒業式でのマスク緩和を受けて、教育現場では戸惑いが広がっていると報道されています。

愚かなことです。

学校で「感染症対策」の名のもとで行われたことが、本当に感染者を減少させたのかどうか、いまだにまともな報告がありません。

大きな効果が観察されない以上、学校における感染症対策に意味は全くなかったと考えるべきです。

したがって、大人がまず子供たちになすべきことは、

「何の意味もないことをさせてしまってごめんなさい、大人がみな間違っていました」

と謝ることではないでしょうか。

なお、1月9日に主催しました、京都大学教授の明和政子先生の講演会で、質疑応答の際に、明和先生から「カナダやイスラエルなどでは、子供のマスク着用はソフトな虐待だとされている」旨のご発言があったことを特に記しておきたいと思います。

学校で行われてきたことは、端的に、虐待だった。そういう認識をしっかりと持つことが今求められていると、私は思います。

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講演会のお知らせ

この度、下記のような講演会を企画しました。

保育園幼稚園の現状を直接耳にする機会が何回かありましたが、状況は危機的です。ただちに行動にうつさなければ、彼らの将来にかかわる事態になると考えています。

大人たちの問題意識を掻き立てるために、一石を投じることができれば。

「子供たちの未来のために今できること-コロナ禍の育ちと学び」

[日時] 令和5年1月9日(月・祝)13:30~15:30(開場13時)
[会場] 姫路キャスパホール
〒670-0913 兵庫県姫路市西駅前町88 キャスパ7階
[費用] 入場無料
[後援] 姫路市教育委員会 神戸新聞社
[注意事項] 児童未就学児の入場も可とします。
事前に申し込み制で、当日入場も可
[問合せ]
090-3704-7330 主催 LLIイタリア語ラボ 担当:東海 まで
tohkai78@gmail.com

 

 

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子供たちが素顔に戻るために

文部科学省が、子供たちに屋外でマスクを外させるよう指導を徹底する通知を出しているのは結構なことです。

私自身は屋内でもマスクを外すべきだと考えています。感染抑制効果は限定的な割に、常時マスクの弊害がすでに明らかになりつつあるからです。

その弊害の一つが「マスク依存」でしょう。学校の先生などが、マスクを外すように呼び掛けても、「恥ずかしい」などなどの理由でなかなか外してくれない問題です。

この問題は、近い将来、きわめて深刻な社会問題になるのではないかと考えています。行政サイドも同様の認識はあるらしく、姫路市教育委員会に、マスク依存の問題に加え「子供たちは一生、マスク生活してもよいのか」とメールで問い合わせたところ、教育委員会にも問題意識はあるようでした。

では、どのようにすれば子供たちはマスクを外してくれるのでしょうか。

私はこの二年間、子供に勉強を教える際、必ずマスクを外させてきました。わずかな例外は除いて、多くの子は「外せ」というと素直に外してくれましたが、心理的な抵抗が残る子は少なくありません。特に女の子は抵抗を示すことが多いです。

その際に私がやる手をいくつか紹介します。

0 自分がマスクを外す

そもそもの前提として、大人がマスクを外してください。大人が子供に範を示すべきです。

1 マスクがいかに効かなかったかをグラフで説明する

マスク義務をかけた国・地域は多いですが、マスク義務をかけると感染者が減ったとか、義務を外すといきなり増えた、という分かりやすい変化を示した例はまずないと思います。

この種の比較で一番わかりやすく例が多いのはアメリカですが、子供たちには日本の例を出した方が分かりやすいでしょう。最近ではこういうものがあります。

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日本のマスク着用率は100%近いところで一定していますが、世界ではこの1月以降順調に下落しています。ところが、

20220523_122826

100万人あたりの感染者数で比べると、現在、日本は世界をはるかに超えているうえ、世界のマスク着用率が下がっても感染者数が減少しています。

つまり、マスク着用率と感染者数には関係が乏しいことが一目瞭然で分かります。

このようなグラフを、小学校4年程度の子供でも、見せるとすぐに理解します。

2 マスクの弊害を語る

マスクのメリットが非常に薄いことを語ったうえで、弊害を語るべきです。

マスクのデメリットを調査したものも少なくないようですが、最も分かりやすい記事を最近見つけました。イスラエルの大学教授たちが書いたものです。題して「子供たち、ごめんなさい、私たちは誤りでした」

この記事では、コロナ対策として打ち出された措置が引き起こした問題、たとえば休校措置が死者を減らさなかったことや、教育機会の喪失による生涯所得の減少などなどが指摘されていますが、マスクについては参考文献がリンクされつつ、

・常時マスクを着用する子供は、認知・言語機能においても、また身体の健康においても、通常の成長に劣るリスクがある

と指摘されています。

このことをはっきり子供たちに伝えるべきです。

私は、口の悪い播州人らしく、次のように一言で言ってしまいます。

「マスクを着けてたらアホになる!アホになりたなかったらマスク外しっ!」

3 子供たちに謝る

最後に、子供たちに謝るべきです。

私たちは「感染症対策」という名目で、全く間違ったことを社会的に実行してしまいました。自粛(海外ではロックダウン)、ソーシャルディスタンス、マスクなどなどです。

この間違った対策によって、子供たちの心身を害したのみならず、将来を傷つけ、彼らに重い負担を背負わせることとなってしまいました。

日本では新型コロナ対策として100兆円近い予算が実行され、使途不明が10兆円を超えるとも報じられています。

すべて無駄でした。こんなお金があるならば、本来ならば、教育学術分野や日本の未来に通じる分野へ投資されるべきでした。

こんな愚かなことをして2年以上の年月を浪費した私たち大人は、子供たちに心から謝罪をしなければなりません。

マスクを子供たちに強制的に着けさせてきた学校の先生がたは、特に心から子供たちに謝罪すべきです。

ただし、注意が一つあります。親との関係です。

私がいかに大人がアホかという話をすると、ある子供から「じゃあ、お父さんやお母さんもアホなん?」と問われ、言葉が詰まりました。

さすがに他人の子供の親までアホ扱いするわけにもいきませんから、私はこのように答えました。

「いや、アホではない、ただ医者や政府や偉い人らがみんなウソや間違いを言ったから、だまされたんや」

他にどういう説明の仕方ができますか。

できれば、保護者の方々は、もちろん子供たちのために善意でマスクを着けさせてこられたとは思いますが、ぜひ一言、「ごめんなさい」と言ってください。

ここまでやれば、まずどの子もマスクを外してくれるはずと思います。

もちろん、あまり無理強いしてもかえってうるさがられて、反発されるだけなので逆効果ということもありえます。なので、慎重にならねばならない場面もあるし、他方でマスクを外す指導を繰り返す必要もあります。これまで何の根拠もない説明が繰り返されたのですから、当然その反対のことを繰り返さねばなりません。

それでもマスクを外せない子は、一種の強迫神経症とでもいうのでしょうか、「マスク依存」という心の病気だと考えて、その子としっかり向き合うべきです。

「マスク依存」という病を発症させた原因は、私たち愚かな大人です。子供たちとしっかり向き合うことで、今は無理でも、いつか素敵な笑顔を見せてくれる日が来てほしい。根気強く付き合うことが、せめてもの責任の果たし方だと私は思います。

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「感染症対策」は本当に効いたのか。 Ian Miller “Unmasked”

今次「パンデミック」では世界中で様々な「対策」が推奨されました。マスク、手洗い、3密の回避、自粛、ソーシャルディスタンスの確保、ロックダウン、ワクチンなどなどです。

私は2年前からイタリアをはじめ欧州各国や米国を観察していましたが、これらの対策がうまくいったような印象はもっておりません。感染抑制に資するというわりに、ちっともそういう様子はないのです。

私の印象はまんざら間違いでもなく、実際、これらの対策がどの程度有効であったのか、いまだにきっちりしたデータがあるようには聞きません。これは有効だという話が出ても、統計的な問題が指摘されるなどして、信頼性に欠ける話が多いのです。

その典型例がマスクです。マスクは感染症対策になると一般的には信じられており、その理由も説明されていますが、では現実世界ではどうだったかという検証となると、そこは極めて乏しい。

ここに取り上げるIan Miller による”Unmasked”という本は、専門家集団によって推奨された「対策」がことごとく失敗に終わったさまを、公表されている単純なグラフをもとに淡々と指摘しています。https://www.amazon.co.jp/dp/1637583761/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_SF2Q8V3A0KXV5JEY6R7Z

アメリカの専門家たちはマスクを多数の人が付ければ数週間から数か月で制御可能になると言っていたわけですが、もちろん現実はそんなことにはなりませんでした。

またマスク義務を解除すると、専門家やメディア、政治家が決まって批判して、人殺し呼ばわりまでしていたのですが、陽性者数が急上昇するなんてことにはなりません。

アメリカでは各州ごとに対策が異なり、タイミングも違うので、おおざっぱな比較対象実験をやっていたようなものなのです。そのため、専門家の推奨する「対策」がすべて失敗だったことが非常に明瞭にわかるわけです。

詳細は本書に譲ります。専門家やメディアが繰り返してきた断言や脅迫は見事に外れています。

アジアや日本の話も出てきますが、ここでは一点だけ紹介しましょう。

新型コロナが登場して以降、インフルエンザが流行っていないのは、マスクや手洗いなどの「感染症対策の基本の徹底」のためだと言われています。

本当でしょうか。

著者はマスク着用率の低いスウェーデンと日本を比較しています。次のグラフを見てください。

https___bucketeer-e05bbc84-baa3-437e-9518-adb32be77984.s3.amazonaws.com_public_images_5ff882f6-f0e0-4cf6-bf5d-b96a0a615833_936x350

日本のマスク着用率は常に100パーセント近いですが、スウェーデンはせいぜい20パーセントです。

そこで2020年から2021年にかけてのインフルエンザの流行は次の通りでした。

20220224_223009

2020年春の流行が収まったあとは、スウェーデンも日本も、マスク着用率に関係なくインフルエンザは流行しなかった。これが事実です。

これはなぜなのか、というのは様々な議論があるはずで、のちの研究を俟つべきだと思いますが、事実はこの通りなのです。

新型コロナウイルスが現れる前までは、マスクは風邪やインフルエンザのウイルス対策としては無効であるというのが常識でした。この2年で話が変わったわけですが、実は以前の常識が正しかった、というのが素直な議論になるはずです。

・・・

重要なことは、本当に有効かどうかわからない、有効であるとしてもどの程度有効であるか、あるいはデメリットにどういうものがあるか、そしてそのメリットとデメリットのバランスはどうなのかという議論が一切なされていない、ということです。

このような極めて重要な議論を欠いたまま、欧米では様々な「対策」の義務化や強制が行われ、いまだにまともな反省はなされておりません。

私は、「致死率0.01%になったから、『感染症対策の基本の徹底』をもうやめろ」と書きましたが、これは不正確だったと今にして思います。
http://takinstitute.com/wp/?p=392

致死率が0.01%だろうがなんだろうが、有効かどうかよくわからないものを社会一般に強制するのは全く間違っている、たとえ有効性が確認されるとしても、個人の自由の範囲は限りなく広く保証されるべきだ、であるならばなおさら、「感染症対策の基本の徹底」がさも有効であるかのように継続することは断じてやめよう、と言うべきでした。

個人個人で好きな「対策」をするのはかまいません。他方で、社会的に行う対策はそういうわけにはいきません。本来、その峻別をするべきなのです。

科学に従え!Follow the science! と何度も言われました。しかし、科学というのは、仮説をたて、現実を観察し、仮説を修正するのが科学です。

こうあるはずだという理論・仮説から出発し、現実が理論通りにいかなければ現実がおかしいと考えるのは、科学でも何でもありません。それは宗教です。

アメリカのメディアにしょっちゅう出ていた専門家のアンソニー・ファウチは、「ワクチン接種率が上がれば、これまでのような感染者数の上昇は見られなくなる」と言っていましたが、現実はそんなことにはなりませんでした。でも、修正も検証も一切されておらず、言いっぱなしのまま終わっています。

真に科学的な態度とは何か、欧米を反面教師とするべきだというのが私の結論です。

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パンデミックとアジア人差別 欧米による差別に日本人が同調する愚

2年前、新型コロナウイルスという「未知のウイルス」が現れたという報道が出た当初、イタリアではアジア人差別について報じられました。

例えば、音楽大学に通うアジア系の学生は出席を断られた、といったエピソードがありました。ご記憶の方も少なくないと思います。

私のイタリアの友人によると、当時、日本人でも中国人だと認識されて差別されるなどということがあったそうです。あまり大っぴらに報道されていませんが、アジア人に対する暴行事件が欧米ではかなりあったようにも聞いています。

これだけでも十分ひどい話ですが、実は医療の世界にもアジア人差別は横行しています。

私の古くからの友人に数理疫学を専門としている英国人がいます。今次「パンデミック」の当初、彼とメールをやり取りしていました。(後に、数理疫学があまりにも役に立たない学問であることが分かったのでかわいそうになり、また、どうせ公式見解以上のことをメールで言えるわけでもないので、連絡するのをやめました)

彼によると、当初欧米の専門家たちは、「アジア人だから新型ウイルスの制御に失敗したが、自分たちには容易だ」と考えていたそうです。

現実はご存じの通りで、欧米では制御も何もできませんでした。それは当然です。新型といえどもコロナウイルスは風邪のウィルスの一種です。風邪のウイルスを制御できると考えるほうが愚かです。

しかし、その愚かなことをやろうとしたのが、欧米の専門家たちであり、その背景に根強いアジア人差別があったことは、日本人としてよく胸に刻んでおくべきです。

また、ヨーロッパでは一般的にペストなどの疫病は東から来るものというイメージがあり、なおのこと、アジア人差別に拍車がかかりました。

こういった文化的背景が、今次「パンデミック」に対する、きわめてヒステリックで合理性を欠いた対応へと導いたものと考えています。

「検査・隔離」のセットやロックダウンなどなど、実行された様々な感染症対策について、どこまで有効でどういうデメリットがあり、そのバランスはどうなっているのかという客観的な検証・反省が行われるべきですが、未だに行われていません。

例えば大量検査と隔離によって感染を抑制できた国はないと思いますが、2年前から盛んに推奨されています。結果を見ると合理性を欠いた、単に差別を助長するだけの政策であることだけははっきりしていますが、しかし当初、そのような愚行を正当化したのは、差別から生じた集団ヒステリーがまず挙げられます。

ダイアモンド・プリンセス号という客船が日本の横浜に停泊し、多くの乗客が感染した事案がありました。欧米の報道に日本政府がずいぶん悩まされたと伝えられていますが、これもアジア人差別の現れです。そして、ダイアモンド・プリンセス号で日本が集めたデータを、欧米の研究機関はちゃっかり利用しています。あれだけバカにしておいて卑怯千万だ、どこまで面の皮の厚い連中なんだ、と思うのは私だけではないはずです。

・・・など、例を挙げればキリがありません。

しかし、こういう疑問を言われるのではないでしょうか。

「欧米ではあれだけの死者を出して、ではどうすればよいと思うのか」

やるだけ無駄なことをしたり、あるいは逆効果なことをやって効果があると信じ込むよりは、何もしないほうがいろんな意味でましでした。おそらく騒ぐだけ損で、結果は大して違わなかったのではないかと思われますが、ここはのちの研究をまたねばなりません。

少なくとも、差別によるヒステリーによって正当化された、いろんな強制や義務は、合理性を一切欠いたものであり、批判的検証もなされておらず、今後二度と繰り返されるべきではない、ということだけは確かです。

これが、イタリアを中心にこの二年、ヨーロッパやアメリカの様子を観察してきたうえでの結論です。

日本人は、欧米の真似をしてはいけないのです。

・・・

先日、ホロコーストなどのユダヤ人差別を思い出す記憶の日、というのがありました。そこで、二度とあの悲劇を繰り返さないとイタリアの政治家たちが発言しているのを見て、私は非常にむなしくなりました。

いま自分たちでこれだけの差別をやっているのに、なにを言っているのかと。

幸い、私の考え・批判に賛成するイタリア人たちはいます。そのことだけが救いです。

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致死率0.01%の病気で騒ぐのはもうやめよう 「感染症対策の基本の徹底」の即時撤廃を!

国立感染症研究所が面白い話を出してきました。

https://www.niid.go.jp/niid/ja/2019-ncov/2551-cepr/10900-sars-cov-2-b-1-1-530.html

今話題の「オミクロン株」についてですが、ヨーロッパのデータを紹介しています。

また情報が得られた感染例の中で、1%(94/14,972)が入院し、0.1%(16/14,930)がICU入室/人工呼吸器管理を要し、0.01%(2/20,256)が死亡した。

つまり、いわゆる「オミクロン株」の致死率は0.01%だという指摘です。

同種の指摘は東京のデータからも言われてきました。

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致死率0.01%というのはインフルエンザの致死率のおおよそ10分の1程度の話であり、平たく言えば風邪、下手をすると風邪以下の話だとなります。

 

(2月6日追記 東京の重症化率が出てきました。0.03%なんだそうです。

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したがって、結論としては、今現在やられているすべての対策、マスク、手指消毒、3密を避けて距離をとる、水際対策、ありとあらゆる自粛、学校生活の規制、すべては無駄かつ無意味であり、直ちに解除するべきである、となります。

法的にもこのような疾病のために現在行政が行っている対策は容認されえません。特措法で想定されているような危険な感染症では全くないからです。

では、報じられているような病床率の上昇はなんなのか。これはすでに広く指摘されているところですが、入院する必要のない人を無理やり入院させていることに起因する水増し、別の病気で入院している人が検査でたまたま陽性だっただけで「陽性」「感染者」扱いすることによる水増し、などが要因としてあげられるでしょう。

なにせ、新型コロナという名目さえつけば、病院にお金が入るシステムが出来上がってしまっています。これが問題なのです。

いずれにせよ、かくなる上は、感染症対策の基本とされるものは全てやめるべきです。

個人的には、世間に流布されている「対策」は全く無効、無意味だと思いますが、仮に相当の有効性があるとするとそちらのほうがはるかに問題です。

というのも、適当な刺激を免疫に与える機会を長期間に渡って失わせることになっており、確実に人間の免疫力は弱まるからです。

また、海外でもロックダウンを代表とする強権的な対策はすべて無効か逆効果であった可能性がまじめに取り沙汰されるようになってきています。

つまり、この二年間の騒ぎはすべて無駄だった、という結論になります。当然です。

致死率0.01%の風邪のようなもので騒ぐのは愚かです。「感染症対策の基本の徹底」や、法で定められたあらゆる対策は全てやめましょう。

そのために、私たち一人ひとりが行動すべき時です。

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ジョルジョ・アガンベン「私たちはどこにいるのか?」

前回は英国での反応を紹介しましたが、今回はイタリアの反応を見てみましょう。

今回取り上げるのは、ジョルジョ・アガンベン著「私たちはどこにいるのか?」です。https://www.amazon.co.jp/dp/4791773616/ref=cm_sw_r_tw_dp_5QJ7W9YAKMAE24BSNM6B

アガンベンはイタリア思想界の大物で、イタリアを代表する思想家の一人です。新型コロナウィルス感染症への「対策」に対して当初から一貫して批判的でした。昨年2月からブログでその批判を書き続けています。本書は昨年7月までのブログ記事やインタビュー記事をまとめたものです。

一点だけ本書を補足する必要があると思ったのは、「緊急政令 Decreto-legge」という日本にはない法制度についてです。

Decreto-legge というのは、政府が官報で布告すれば直ちに法的効力を持つという制度です。緊急の措置が必要な場合に政府が柔軟な措置をとれるので便利な制度ですが、ただし60日以内に議会が決議して正式な法律にする必要があります。

イタリア政府はパンデミックの当初からこの緊急政令を使っていましたが、実は緊急政令はパンデミック以前より頻繁に使われるようになっており、当然ながら批判も出ています。

以上が日本人向けの補足で、他はアガンベンの思想をよく知らなくても、十分に主張はくみ取れます。

まず非常に興味深かったのは、イタリアにおける死亡者数と死因についての指摘です。

アガンベンによれば、2017年にイタリアでは647,000人死んでいますが、そのうち循環器系の疾患で230,000人も死んでいるそうです。呼吸器系の疾患が死因となっている人は53,000人。

循環器系の病気で死んだ人が全死亡者のおおよそ3分の1を占めるわけですが、理由はおそらく明らかで肥満や食生活だろうと思われます。イタリア人にはとにかく肥満の人が多い。

ですので、この23万人の死者を減らそうとするならば、イタリア人の食生活に直接介入すればよいのです。塩分は一日何グラム、脂肪分は、アルコールはこれだけ、少しでもそれを超過すれば罰金刑。

イタリアはクリスマスの宴会で有名です。家族親戚が集まって、揚げ物でいっぱいの食事を腹がはち切れるほどにたらふく食べるのが恒例行事となっています。

イタリア人にダイエットさせるために、クリスマスの宴会は禁止、もしこの規則を破れば多額の罰金!

・・・笑ってはいけません。今、イタリアのみならず、日本を含めた各国政府がこの一年半やってきたことは、こういうことでした。

保健衛生を第一に考え、「バイオセキュリティ」を最優先させると、クリスマスの宴会を禁止することは認められなくてはならないのです。

いや、それはおかしいと言われるかもしれません。循環器系の病気は人にうつさないが、新型コロナウィルスは感染症だから人にうつす、と。事実、昨年のイタリアでは、感染対策の一つとしてクリスマスのパーティーはできなかっただろうと思います。

(ちなみにですが、新型コロナウィルス感染症のリスクファクターの一つは肥満です。新型コロナウィルスの脅威を煽る専門家の中に肥満の先生がいるのは本当におかしなことです)

・・・

しかし問題はこれまで各国政府がとってきた一連の「対策」が本当に有効だったのかどうかよく分からない点に尽きます。つまり、従前と同じように生活しても大して状況は変わらなかった可能性が少なからずある。

むしろロックダウンやマスクの罰金付き義務化などの極めて強力な「対策」をやればやるほど、社会的・経済的ダメージのみならず、精神的・身体的なダメージを生み出す結果になっており、「命を救うため」として導入された一連の「対策」が本当に命を救っているのかどうかを、本来であればかなり慎重に検討しなければなりません。

しかし実際には、前回も書いたように、一連の「対策」のメリット・デメリット、コスト&ベネフィットを公平に比較考量したものを各国政府とも公式には出していない。

そうすると、残るのは緊急政令によって政府に与えられた強力な権限だけです。緊急事態だからと言って導入された、その根拠が問われることになります。

この状態を本当に是認できるのかどうかを、アガンベンは執拗に問うています。

アガンベンによれば、イタリアのある法学者は、政府による一連の「対策」の違憲性を否定して、あくまでも普通の生活に戻るための一時的な措置であり、永続的に強権的な政府を存続させるものではないので問題はないと論じているそうです。

もちろん、この法学者の主張は単なる屁理屈です。普通の生活に戻るための一時的な措置だから違憲ではないという主張が正しいならば、政治家は「これはあくまでも元の生活に戻るための措置なので今だけ我慢してください」とさえ言えばなんでもできることになってしまいます。

・・・

人の命を守るためと称して、医療サイドが政府と協力してここまで人々の日常生活に介入することは一昨年前まで想像すらされませんでした。

歯を磨いて口の中の環境を整えておくことは、感染症予防にもいいことですが、歯磨きの罰則付き義務化なんて今でさえ聞いたことがありません。

でも、義務化しなくて当たり前なのです。自分の健康は自分で管理するもので、それ以上、他人に強制されるものではないからです。その「当たり前」が忘れ去られつつあることに対する危機感がもっと持たれるべきではないでしょうか。

ちなみに、日本の死因別死者数を見ると、2019年、腫瘍で376,000人、高血圧性を除く心疾患で207,000人、脳血管疾患で106,000人、肺炎で95,000人の人が亡くなっています。

他方で新型コロナウィルス感染症ではこの一年半の間におおよそ1万4千人程度亡くなったことになっています。さらに、この疾病で亡くなった人のうち4割は重い病気をすでに抱えている人であって「最後の一滴」がたまたまコロナだったにすぎないという話もあります。

「対策」の有効性が不明であることを考えると、いかに不毛なことをこの一年半やってきたのかと言わざるをえません。

・・・

他方、アガンベンのような西洋を代表する知識人が「対策」に批判的な立場をとっていることに希望を感じます。

昨年来、私たちが見てきたものは西洋の傲慢さでした。体の大きな子供がわんわんと泣き喚いて周囲を振り回しているようにしか見えませんでした。

しかも、この体の大きな子供は、すぐに他人をバカにするのです。たとえば日本に対する根拠のない、偏見に満ちた「批判」は単なる人種差別の発露でしかありませんでした。

西洋には知性が死んでしまったか、あるいは最初からそんなものはなかったのだろうと私は絶望していました。しかしアガンベンの本書に触れ、かすかな希望を感じる思いをしています。

しかし、この希望は決して力強いものではありません。愚かな混乱はまだまだ続いているからです。

この一年半、「科学」が錦の御旗としてかなり恣意的に利用されてきましたが、この混乱を止めるのは、科学の力ではありません。むしろ、科学そのものが事態を無駄に混乱させてきたとすら言えます。

その象徴の一つが無駄な検査でしょう。前回も書いたように、隔離に意味が薄いことは最初から分かっていたことで、無症状感染者をわざわざ見つけ出してきて隔離することは全くの不毛でしたが、それも科学技術の裏付けがないとこんな無駄なことはできませんでした。

また愚かしいことに、今、米国や英国では検査基準を変更し、陽性者が少なくなるようにし始めています。

検査の問題は、「科学の力」に過剰に依存するとこういうことになる、という典型です。

科学という人間の力では、自然に勝てないのです。

そのことを、欧州の知識人も分かっている、少なくともアガンベンはよく分かっている。本書を読んで、少しばかり、私も力を得たような気がしました。

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Laura Dodsworth “A State of Fear”

欧米は被害が大きかったからロックダウンも仕方がなかったと軽々に信じている人は、このイギリス・アマゾン欧州政治部門で1位のベストセラーとなっている同書を読んだ方がよい。https://www.amazon.co.jp/dp/1780667205/ref=cm_sw_r_tw_dp_16FP31B6WYYMKXJ2S231

英国は日本とは比べ物にならない厳格さでロックダウンを実施したが、市民に規則を守らせるために、行動心理学を駆使して恐怖を利用した様々な政策を行った、そこに倫理的な問題はないのかと問うている。

著者はジャーナリストであって専門家ではない。それにことの性質上、匿名情報が多く、その分、主張に強さを欠く場面がある。(もっとも、英国政府内部にも相当の不満があり、このような形で内部の情報がリークされたという可能性はあると思う)

また、英国政府が心理学者の提言をどのように具体的に政策に反映させたのか、またその政策がどのような影響を社会に与えたかを検討することは非常に難しい課題であり、この本ではそれは無理な要求だ。

しかし著者は限界について自覚しており、同書はあくまでも倫理の問題を問うものであって、今後の調査のスタート地点であって欲しいと書いている。執筆態度は一貫して真摯かつ良心的だ。

詳しい議論は読んでもらう他ないが、少しだけ書かせてもらいたい。

まず、英国で新型コロナウィルス感染症が死因になった人の平均年齢は82.3歳であり、平均寿命より1歳上なんだそうだ。また感染が多く発生しているのは、病院や高齢者施設などで、日本と大きく変わらない。

にもかかわらず、民主主義国として限界を越えるレベルにまで社会活動を規制した。疾病のリスクととられた対策のバランス、メリットとデメリット、コストとベネフィットの検討をすれば、コスト・デメリットの方が大きすぎることは明らかだ(実際、正直な調査検討をいまだ公表していないらしい)。

この過大な社会規制は「より大きな善」によって正当化されたわけだが、社会規制に人々を確実に従わせ規制に実効性を与えるために、政府は新型コロナウィルス感染症本来のリスク以上の恐怖心を人々に吹き込み、行動心理学を利用することで人々の行動を変容させようとした。

このようにして、国民の間で議論も合意もないまま、十分な説明もなされず、透明性が欠如した形で、国民は政府の指示通りに行動するようにさせられてしまうこととなった。

つまり、著者が指摘しているのは一種の洗脳の問題だと言ってもよい。

このような形で心理学を利用することに倫理的な問題は当然発生しうる。政府のアドバイザーである心理学者も倫理的問題の存在を否定していない。

しかも、メディアやネットなどを総動員した政府によるプロパガンダによって、人々の間に恐怖心が過度に浸透してしまい、抜けることが非常に難しくなってしまった。心理学者たち自身がリスクを過大に見積もっていたのだから、始末に負えない。

もっとも、このような非常に無理のある政策が本当に「より大きな善」のために有効であればまだしも、実際のところは大きな疑問符を付けざるを得ない。

ロックダウンなどの「感染症対策」が有効であったというエビデンスはなく、むしろ身体的・精神的・社会的・経済的なダメージは明確かつ図り知れないため、「より大きな善」のためという建前そのものが崩壊しているのが現実である。

実は2019年にWHOが報告した、インフルエンザのパンデミックを想定したレポートによると、休校や旅行規制、いわゆる「水際対策」、隔離などなど、当たり前のように考えられている「感染症対策」はエビデンスが非常に弱いとされていたうえ、ロックダウンのような破壊的な対策は想定されていなかった。

つまり、みな最初から分かっていたのだ。

パンデミックは以前より懸念されていたリスクであったため、英国保健省内部でも事前に対策案は練られていたものの、引き継ぎが十分に行われないまま忘れられていたり、また専門家の会議も同じ意見の人だけが集まり、異なる意見の人は排除する傾向にあるとのことで、笑えない現実が次々と指摘されていく。

救いはこういった政策に対する批判が英国にもあることで、最高裁判所の元判事が言うべきことを言っているそうだ。

つまり、被害の大きさは必ずしも対策の強度を正当化しない、「ロックダウンも仕方がなかった」という話にはなりえないのである。

著者は最後に、今後どういう社会に生きたいか、価値や理念をもっと考えないといけないと言っている。その通りだと思う。

私の健康は私の問題であり、それが他人を守ることにつながる。もし他人に病気をうつして、その人が亡くなっても、それは仕方がない。そもそも新型コロナはその程度の病気であり、その程度のリスクしかないとも言える。一昨年までは、人に何をうつそうが何も意識せず私たちは生きてきた。誰かに管理され、あるいは心理学的手法を使って選択を強制されるような形で生きるのは、私はまっぴら御免蒙りたい。

今後、デジタル化が高度に進むにつれ、自由やプライバシーの領域がますます狭くなると言われている。であるならばなおのこと、自由とは何か、自分で自分のことを決めるとは、選択するとは何かを考え直し、ここで抵抗することが肝要だろう。

これからどのような経過をたどるのか、私にはよく分からないが、ロックダウンを筆頭に、その他多くの「感染症対策」は全く無意味か、むしろ副作用が大きすぎたことはこの一年半の経緯から明らかと言ってよい。

同じ失敗を二度と繰り返さないために、本当のこと(“truth”)を直視することが必要だろう。

このような内容の書籍なので、日本語に翻訳される可能性は薄いと思うが、読みやすい英語で書かれている。私には教えられるところがたくさんあった。恐怖にかられている人にも、呆れて醒めている人にも読んでもらいたい良書だ。

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科学は命令しないー「専門家」の責任はいずこ

日本の「専門家」も、海外の「専門家」たちと同じく、信頼性を失いました。

たとえば、ある専門家は当初、「満員電車の中でもマスク着用の必要性を感じない」としていましたが、今は意見を変えています。

意見を変えるのはかまいませんが、「日本では満員電車が解消されなかったのにもかかわらず、なぜ欧米のような大きな被害がでなかったのか。本当に通勤時のマスクのみで防ぎ切ったのか」という疑問には、誰もはっきりと答えてくれないのです。

この専門家は、最初の意見のままでよくて、意見を変える必要がなかったのかもしれません。

ではなぜ意見を変えたのでしょうか。たぶん、海外(特に米国)の論調を横目で見ていたからとか、あるいは様々な大人の事情などなどだろうとは思いますが、すべて推測です。

しかし、この種のいい加減な態度は日本の「専門家」たちに一様に言えることでした。

・・・

これは日本に限ったことではありませんが、この一年間、「専門家」たちは一般の人たちに向かって「こうしろ」という命令をくり返してきました。

確かに、最初、何も分からない状況ならば、ある程度乱暴なことは許されるかもしれません。しかし、臨床医たちの努力で昨年の早い段階でそれなりの治療法ができて以降、経験は積み重ねられており、研究も同時に進んでいます。

にもかかわらず、なぜ「専門家」たちの命令が終わらないのでしょうか。

しかも、その命令の根拠は疑わしいのです。なぜ命令できるのでしょうか。

一年前、ある専門家が「飲食店はテイクアウトなどを、ミュージシャンはストリーミングをすればいい」と書いていて、驚きました。一時的にはともかく、テイクアウトやストリーミング放送が代替になるわけがないからです。いかに人間社会についてこの専門家が疎いのかに、驚いてしまったことを記憶しています。

「当然国は休業補償するべきだ」と感染症の専門家が言い出した時には、いよいよ呆れました。財政の余力に乏しく、少子化が進む日本で、少子化がますます進む政策を実行しろと言いながら、どうして感染症の専門家が国家財政の問題にまで口を出せるのでしょうか。

自分たちの命令が引き起こした結果について、いかなる責任を負う覚悟が「専門家」たちにあるのでしょうか。

批判的検証をひたすら避けている「専門家」たちの言動からは、責任感がまるで見えてきません。

・・・

昨年末、京都大学の研究グループが、Go to トラベルキャンペーンが感染を拡大させたというペーパーを発表し、メディアでも大きく扱われたことは記憶に新しいことと思います。

あの後の展開がひどかったのです。これはネットを観察していないと分からないことでした。

京大グループの研究内容と夏の人流データとを比べたときにあまりにも研究結果が不自然であったことや、ペーパーの中身の恣意性に、ネット上では大きな批判がでたのですが、

実はそもそもあのペーパーはしっかりしたところに発表したものではないことが明かになり、執筆者自身、内容そのものについても大きな留保を付けなければならないものであることを認めてしまいます。

つまりこういうことです。

Go to トラベル キャンペーンが感染を拡大させたとする内容の研究であれば、誰にでも容易に理解できるうえ、そのときはキャッチーだったので、京大のような一流大学に属する研究者が発表すればメディアは確実に食らいついて、大きく報道してくれます。

しかし、メディアが取り上げた時には、ペーパーを出したところの問題も、中身についての留保も黙っておくわけです。後になってネット上で問題点を認める。

これでは、人々の印象には「Go to トラベルは悪かった」というものしか残りません。

このような狡猾な手段を用いて、巧妙に責任を回避しつつ、世論誘導・扇動をしているわけで、研究者・専門家としての矜持や倫理はどこにあるのか、と断ぜざるをえません。

おそらく、研究者の立場からすると、似たようなことは他の研究者もやっており、自分だけ責められるのはアンフェアだ、と思うのでしょう。

しかし、社会に対する影響を考えた場合、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が通用するわけがなく、また通用させてはなりません。

・・・

この一年、科学の美名のもとで、本当に科学なのかどうか疑わしい断定がいくつもなされ、社会を動かし、人々の生活を束縛してきました。

これは科学ではないはずです。科学は安易な断定や命令をするものではないからです。

むしろ、不可解な現実を前にして一歩立ち止まり、さまざまな疑問を抱えながら、一応の答を用意しつつも、批判に向き合い、必要があれば修正をいとわない、これが科学だと私は今まで信じてきました。

世界で言われている「科学」は、これとまるで正反対です。

前回の冒頭、自殺した官僚やとんかつ屋の大将について触れました。「専門家」の皆さんが、彼らの前で一体どういう申し開きができるのでしょうか。

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