音と言葉:オペラと文楽

毎年2回、城北公民館でオペラ鑑賞講座を行っています。今年も例年通り実施する予定で、もちろん毎回、事前にある程度の準備をします。私にとっては貴重な勉強の機会です。

今も、次回講座のために勉強中なのですが、改めて、オペラの歌詞や言葉と音が密接に関わり合っていることを痛感しています。

ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトなど、傑作を残した作曲家たちは、一語一語にこだわって作曲しており、彼らは台本作家に厳しい注文を次々とつけています。作曲家のイメージにふさわしい言葉がないと、音楽が付けられないからです。ヴェルディに至ってはほとんど自分で台本も書いていると言われるくらいのこだわりを見せています。

この言葉と音楽の関係を本当に理解しないと、演奏することは到底無理なのですが、しばしばそれも怪しい場合があります。

まして聴く方は、とてもそこまで考えて演奏を聴くことはまずありません。そもそも、私たち日本人にとって、外来文化であるオペラは、言葉が大きな障害です。

しかし、少しでも言葉と音の関係が分かると、作品への理解が深まり、感動も一入です。オペラ鑑賞講座で、わずかでもそういう聴き方をするためのヒントを皆さんと共有できればと考えています。

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そうは言っても、外国語の壁は分厚く、日本人には到底無理だ、無縁の代物だ、と思われるのも当然です。私も難しいと思います。

ところが、ここに一つ、日本にも面白いものがあります。文楽の義太夫節です。

私は大学生のころ、義太夫節が大好きで、よく大阪の国立文楽劇場に通ったもので、2回書いたうちの1回目の卒業論文は「寺子屋」の分析でした。

義太夫節も、言葉に徹底的にこだわり、言葉と音楽が密着しています。

その徹底ぶりのために、いろんな逸話や伝説めいた話が残されています。

義太夫節では太棹という低音が出せる三味線を使います。ある太棹の名人は、どうしても女心の寂しさをうまく表すことができず、途方に暮れていたそうです。ある時、旅興行の宿屋で横になっていると、しんと静まり返る夜の暗闇の中で、井戸に水滴が落ちる音がした。そのゾッとするような音色に、これだ、と閃いたそうです。つまり、太棹の音で人間心理の綾を表すことができる、というわけです。と同時に、語り手の太夫はそれに負けないように声ですべてを表現しなければならず、その修練苦労たるや並大抵のものではありません。

今の人形浄瑠璃文楽が義太夫節の栄光ある歴史、血反吐をはいてきた先人たちの努力に値するものかどうか、文楽劇場通いをやめて随分立つ私にはよく分かりませんが、一つだけ言えることは、オペラと違って、義太夫節は日本語で、特に近畿圏に住む私たちにとってはなじみの深い上方言葉で構成された芸だ、ということです。

義太夫節は、いくつかの例外を除いてはいつの時代も客入りがあまり良くありませんでしたが、それでも私たちにとってなじみの深い芸でした。

そのなじみ深さを取り戻すことはもうかなわないでしょうが、しかしオペラと同じように、音と言葉の深いつながりを感じさせるものが日本にある、あったのであって、少なくともその一点においては、私たちはオペラをそう難しく考える必要はないのだろう、と思っています。

つまり、義太夫節を持っている日本人に、オペラが分からないわけがないのです。

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城北公民館で行われる次回のオペラ鑑賞講座は5月31日金曜日、13時半からを予定しています。詳細はおってお知らせします。

オペラを知らない人も、よくご存じの人も、是非お気軽にお越しください。受講者の皆さんと一緒に楽しみたいと思います。

 

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