草森紳一さんとは、縁あって親しく会話をする機会が何度かありました。東京駅の近くの飲み屋でお酒をおごってもらったこともいい思い出です。
私は草森紳一の良い読者ではありませんが、これだけは読んでいました。 懐かしくなって、新しく収録された随筆のためにまた買って読みました。
草森さんとは何回か電話をしていますが、亡くなる2か月前にも私が電話をして、長い無駄話をしています。
その時の会話はここには書きませんが、草森さんの死後になってむしろ死人に口なしをいいことに、という話が流布しており、これは草森さんが生きていたら一体どう思うんだろうか、ということがままあります。
草森さんとの何回かの電話のなかで、一つ今でもよく覚えているのは、
「時間は魔法だよ、時間がたつとすべてを流してくれるもんだよ」
という言葉です。
『そりゃねえ、草森さんみたいな人はそれでいいけれど、私みたいな世俗の垢にも欲にもまみれた人間はそういう達観はできないですよ』
と答えたように思いますが、そういう人だったので、草森さんからすると、死んだ後のことまでわしゃ知らんわい、というところでしょう。
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草森紳一というと、大量の本に囲まれた脱俗の奇人というイメージがもたれているようで、かつ晩年のあの風貌が仙人っぽさを余計に醸し出していました。
私はそういう草森紳一理解は非常に一面的ではないかと思っています。その根拠になりそうなフレーズが「本が崩れる」の中にもあり、たとえば、
「世間」とやらに背を向けて生きてきたので(実際は甘えて、曖昧を極めながら生きてきたので)(p.17)
お前は、豚か(豚に悪いが)と思う。そうだ、豚だと自分で答える。お前はマンガか(マンガは大好きだが)と問えば、そうだ、マンガだというこだまが、かえってくる。お前はゴミか、もちろんと答える。お前は、人間のクズか。もとより大クズだ。これは、胸を張って、言い切れる。 (p.29)
私は、なぜ草森さんがこういうことを書くのか、よく知っています。草森さんが亡くなってから出てきた話の中に、その「クズ」っぷりがよく知れるものがあり、たぶんそのあたりのことを言っているのだろうという察しはだいたいついています。
ただ、自分は「豚」だの「人間の屑」だのと本当に思っている人が、読者に先回りして、先手を打ってこんなことを書くわけがないだろう、とは思います。かっこ付きで「本当は世間に甘えて、曖昧に生きているのは分かってるんですよ」とアピールする必要性が分からない。あまりにも言い訳がましくて、見苦しい。
一言で言えば、こずるいし、セコい、としか言いようがない。
草森紳一のこのセコさは、文章や生活と密接につながっているはずで、一見「脱俗の仙人」のようなポーズは、実際のところは単にそっくり返って開き直っているだけの度し難さと表裏一体だったのではないかと私は思っています。
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では私は草森紳一が人間として嫌いかというと、幸か不幸か、嫌いになるほどの付き合いはありませんでした。
ただ、私にとっては妙な会話ができる存在で、
「荘子はいいよ。あれを読むと、心がすっきりするでしょ」
という言葉が草森さんの口から出てくるのを聞いて面白がっていました。
脱俗を装った度し難い開き直りも、私には分かるような部分もあり、かつ、あれで結構、本人なりの限界まで俗世間に頑張って付き合ってもくれたことを私は知っています。間違いなく仕事の邪魔になったはずで、死去の報が流れたときには、随分迷惑をかけてしまった、本当はもっと書きたいものがあったろうにと、申し訳ない気分になって落ち込んだことを覚えています。
思い返すと、草森紳一には、表向きのポーズの、もう一段奥があって、そこはもっと男らしい人だったような気がしています。なので、なんであんな料簡の狭いことを書くのか、私にはよく分かりません。
『そんなセコいことを書かずに、もっと素直に自分を出せばよかったんじゃないの。ねぇ、草森さん』
今の私だったら、草森さんにそう言ってみたいです。
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現在、草森紳一の何万冊とも知れない蔵書が保管されているそうです。「時間は魔法だよ」と言っていた草森さんが、本当にそんなことを望んだのかどうか、正直言って疑問です。
よほどの稀覯本はしかるべき研究者や施設へ寄贈、他は古本屋にすべて売り払うなど処分して、きれいさっぱりしてしまうという道の方が、よっぽど草森さんらしい、少なくとも私にとっての草森さんらしい道のように思います。
私にとっての草森さんはそういう人だったのですが、そのような理解が世間ではなされてなさそうであることが、大いに口惜しいですね。
それも、草森さんなら、「死んだ者が強いんだよ、死んだら勝ちだよ」と高笑いして、生きている者のことなぞ、断然無視することでしょう。「時間は魔法」ですから、何百年もたてば今生きている者の些細な出来事など、きれいさっぱり流されてなくなってしまいます。
もっとも、そういう態度は、普通だったら無責任の極みなのですが、草森紳一に限っては無責任だと言い切れないものがあって、そこに慕わしく感じさせる何かがあったのでしょう。
私にとって、草森紳一とはそういう人でした。