私はイタリアにいたためもあり、また生来の音楽好きもあって、ヨーロッパと何かと縁がある人間ですが、この一年間、本当に落胆させられました。
まず、欧米人のアジア人差別の問題を深く痛感させられました。
当初、欧米では、新型コロナウィルスの制御はアジア人だから失敗したので、自分たちは制御可能だと考えられていました。
ダイアモンド・プリンセス号という客船の対応をめぐって、欧米メディアが苛烈な批判を日本に向けていたことを覚えておられると思います。当時は、彼らにとって新型ウィルス騒ぎは全くの他人事だったのです。
また、ヨーロッパの音楽学校に通うアジア人が授業を忌避されるといったような差別がニュースになっていましたが、当初より、アジア人差別が問題だった、と言えるでしょう。
ところが、ふたを開けてみれば全く話が違ってしまい、欧米の被害が大きくなります。その後、知性がどこかに吹き飛んだような話を海外紙などで見るような日が現在に至るまで続いています。
彼らは、感染状況が制御できているかのように見えるアジアの真似をしようとロックダウンと呼ばれる都市封鎖や、マスク着用の罰金付きの義務化などなどの「感染症対策」を次々と行っていきました。
これらの「対策」には世論の支持があったので行われたのですが、市民は決まってこう言いました。
「ルールに従って規律のとれる中国人や韓国人、日本人と違って、自分たちは自由勝手なバカな奴が多いから、感染状況が制御できない」
こうして政府はどんどん締め付けを厳しくしていき、市民サイドも嬉々としてこの状況を受け入れていきます。しかし、そもそも中国人や韓国人や日本人が、上の言うことをひたすら従順に聞いている民族であるわけがありません。それは全くの偏見です。
実際、特に日本では、欧米に比べてはるかにゆるい「感染症対策」が実施されたのにもかかわらず、大きな被害がでていないのですから、そういった民族性の問題は全く無関係のはずです。
ところが、彼らにはそれが分からない。
それどころか、彼らが支持してきた「対策」は、ロックダウン、マスク等々、ほとんどが科学的根拠の薄いものばかりです。コンピューター上でのシミュレーションは、現実とは違います。一年たっても「対策」の効果や副効果について批判的な検証がまともに行われたような話はありません。自画自賛に終始しています。
実際のところはというと、様々なデータの比較や分析がネット上には上がっていますが、「対策」が感染状況を改善した傾向は薄いか、全くない、あるいは逆効果だった可能性すらあることを示唆しているようにしか思われません。
新型コロナウィルスは、風邪を引き起こす他のコロナウィルスの一種であり、他にも風邪を起こすウィルスやインフルエンザウィルスは多くあります。インフルエンザや風邪を、都市封鎖やマスク、ワクチンによって完全に撲滅できる、あるいはそこまで言わなくても制御ができると信じて生活していた人が昨年の1月まで地球上に存在していたでしょうか?
もしそんなことを本気で主張したら、すぐに頭がおかしい人だと思われたに違いありません。
ところが、今は全く話が逆になっています。
なので、「対策」に批判が出て当然なのですが、ところが「対策」への批判的な声を、欧米メディアは無理やりに封じ込め、「専門家」たちの語る一方的で科学的根拠の薄い話だけを垂れ流してきたのが実態です。
つまり、偏見に基づいた政策を、無理やり推し進め、批判的な声も封じた結果が今の欧州や米国の様々な州の現実である、ように私には見えます。
これに対して、全体主義とか医療独裁、医療ファシズム等々といった非難の声が上がっていますし、少なくない医療従事者も批判しています。もっともなことです。
自由や基本的人権といった、西欧社会が築き上げてきた理念を、欧米がいとも簡単に放棄していく姿を、私は本当に呆れて見ていました。
どうして彼らは、こんなに愚かなことを次々と行ったのでしょうか。今後、どんな顔で基本的人権を世界に訴えるのかと思っていたんですが、欧州は堂々と基本的人権を掲げて他国に関与しており、「恥知らずにも面の皮が厚すぎる」という印象を持たざるを得ません。
もちろん、言い訳はいろいろできます。たとえば、欧米は確かに被害はアジアに比べて大きかったので、パニックになったのはもっともだ、という優しい見方は可能です。
しかし、パニックになった彼らは、自分たちの「対策」こそが人々の命を救う唯一の処方箋であり、これに反対したり、あるいは異なる対策を行う人や国は、人間の生命を軽んずるがゆえに倫理的に間違っている、劣っていると一方的に断定し、自分たちの「対策」を押しつけ、批判し続けました。
実際は、彼らの「対策」が間違いかもしれないのです。その検証が今こそ必要なはずです。ところが、あまりにも強く彼らの正しさが信じられてしまったために、「対策」の批判的検証が不可能になっています。
これには、米国の大統領選挙や欧州各国の政治状況とも密接な関係があります。イタリアでも、政府・与党には新型コロナウィルス感染症の流行を政治的に利用しようという意図が明白であったように思います。政治的にも、今さら自分たちが間違いであった(かもしれない)とは、到底認められる話ではありません。
パニックになったことが言い訳になるとは思われないし、言い訳にしてもいけません。
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問題は、新型コロナウィルス感染症に対する対応に限定しないと考えています。
つまり、欧州や米国の知性が崩壊した、あるいはもともと欠落していたのではないか、という疑惑です。メディアの一方的な態度は容認されるものでは到底ありませんが、しかしメディアも「専門家」たちの意見を受け売りしていたにすぎません。
問題の根っこの一つは欧米の「専門家」たちの知性や責任感なのではないでしょうか。社会を支えるはずの「専門家」たちがそもそも崩壊していたのではないでしょうか。
感染症という一分野の「専門家」の信用性が疑われるのに、どうして他の分野の「専門家」が信用できるのでしょうか。
あるいは、専門は異なっていても、まともな知性があれば上に書いたようなことは誰でもすぐ分かることです。今は昔と違って様々なデータをすぐに見ることができ、それを解析してくれる賢い人たちがネットでいくらでも情報を上げてくれます。どうして、知性水準の高いはずの人たちがもっと批判の声をあげなかったのでしょうか。
上に「全体主義」「ファシズム」という言葉を使いました。20世紀前半の歴史を勉強している歴史家であれば、現在の状況は容易に100年前の人類の失敗へと連想が働くはずで、またそうでないとおかしいのです。なぜ歴史家はもっと強い発言をしなかったのでしょうか。
アジア人差別から話を始めましたが、その反省は本当に彼らにはあるのでしょうか。
この一年間、どうして知性のかけらもヨーロッパやアメリカから見えなかったのでしょうか。
そして、さらに大きく言えば、ここまで醜態をさらした欧米が、本当に自由や平等、基本的人権などなどの自由主義国家にとって重要な理念をまだ語ることができるのか、そしてそういう欧米は私たち非欧米人にとって信頼に足る存在なのか。
そういう問題ではないかと思います。
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では、こういった現実に対して、西側自由主義国家の一員である日本人の私たちはどのように向き合えばよいのでしょうか。
私にはとても容易に答えが出せない問題であり、少しずつ考えようと思っています。
ただ、新型コロナウィルス感染症対策については、もっと日本の現実に沿った対策が行われるべきであり、そのような説明が対外的にもなされるべきだろうということだけは確信しています。
(追記)
三部作になったので、あとの二つの記事も読んでください。
http://takinstitute.com/wp/?p=327
http://takinstitute.com/wp/?p=333