日本の「専門家」も、海外の「専門家」たちと同じく、信頼性を失いました。
たとえば、ある専門家は当初、「満員電車の中でもマスク着用の必要性を感じない」としていましたが、今は意見を変えています。
意見を変えるのはかまいませんが、「日本では満員電車が解消されなかったのにもかかわらず、なぜ欧米のような大きな被害がでなかったのか。本当に通勤時のマスクのみで防ぎ切ったのか」という疑問には、誰もはっきりと答えてくれないのです。
この専門家は、最初の意見のままでよくて、意見を変える必要がなかったのかもしれません。
ではなぜ意見を変えたのでしょうか。たぶん、海外(特に米国)の論調を横目で見ていたからとか、あるいは様々な大人の事情などなどだろうとは思いますが、すべて推測です。
しかし、この種のいい加減な態度は日本の「専門家」たちに一様に言えることでした。
・・・
これは日本に限ったことではありませんが、この一年間、「専門家」たちは一般の人たちに向かって「こうしろ」という命令をくり返してきました。
確かに、最初、何も分からない状況ならば、ある程度乱暴なことは許されるかもしれません。しかし、臨床医たちの努力で昨年の早い段階でそれなりの治療法ができて以降、経験は積み重ねられており、研究も同時に進んでいます。
にもかかわらず、なぜ「専門家」たちの命令が終わらないのでしょうか。
しかも、その命令の根拠は疑わしいのです。なぜ命令できるのでしょうか。
一年前、ある専門家が「飲食店はテイクアウトなどを、ミュージシャンはストリーミングをすればいい」と書いていて、驚きました。一時的にはともかく、テイクアウトやストリーミング放送が代替になるわけがないからです。いかに人間社会についてこの専門家が疎いのかに、驚いてしまったことを記憶しています。
「当然国は休業補償するべきだ」と感染症の専門家が言い出した時には、いよいよ呆れました。財政の余力に乏しく、少子化が進む日本で、少子化がますます進む政策を実行しろと言いながら、どうして感染症の専門家が国家財政の問題にまで口を出せるのでしょうか。
自分たちの命令が引き起こした結果について、いかなる責任を負う覚悟が「専門家」たちにあるのでしょうか。
批判的検証をひたすら避けている「専門家」たちの言動からは、責任感がまるで見えてきません。
・・・
昨年末、京都大学の研究グループが、Go to トラベルキャンペーンが感染を拡大させたというペーパーを発表し、メディアでも大きく扱われたことは記憶に新しいことと思います。
あの後の展開がひどかったのです。これはネットを観察していないと分からないことでした。
京大グループの研究内容と夏の人流データとを比べたときにあまりにも研究結果が不自然であったことや、ペーパーの中身の恣意性に、ネット上では大きな批判がでたのですが、
実はそもそもあのペーパーはしっかりしたところに発表したものではないことが明かになり、執筆者自身、内容そのものについても大きな留保を付けなければならないものであることを認めてしまいます。
つまりこういうことです。
Go to トラベル キャンペーンが感染を拡大させたとする内容の研究であれば、誰にでも容易に理解できるうえ、そのときはキャッチーだったので、京大のような一流大学に属する研究者が発表すればメディアは確実に食らいついて、大きく報道してくれます。
しかし、メディアが取り上げた時には、ペーパーを出したところの問題も、中身についての留保も黙っておくわけです。後になってネット上で問題点を認める。
これでは、人々の印象には「Go to トラベルは悪かった」というものしか残りません。
このような狡猾な手段を用いて、巧妙に責任を回避しつつ、世論誘導・扇動をしているわけで、研究者・専門家としての矜持や倫理はどこにあるのか、と断ぜざるをえません。
おそらく、研究者の立場からすると、似たようなことは他の研究者もやっており、自分だけ責められるのはアンフェアだ、と思うのでしょう。
しかし、社会に対する影響を考えた場合、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が通用するわけがなく、また通用させてはなりません。
・・・
この一年、科学の美名のもとで、本当に科学なのかどうか疑わしい断定がいくつもなされ、社会を動かし、人々の生活を束縛してきました。
これは科学ではないはずです。科学は安易な断定や命令をするものではないからです。
むしろ、不可解な現実を前にして一歩立ち止まり、さまざまな疑問を抱えながら、一応の答を用意しつつも、批判に向き合い、必要があれば修正をいとわない、これが科学だと私は今まで信じてきました。
世界で言われている「科学」は、これとまるで正反対です。
前回の冒頭、自殺した官僚やとんかつ屋の大将について触れました。「専門家」の皆さんが、彼らの前で一体どういう申し開きができるのでしょうか。