イタリア人に対する偏見の問題について

イタリア人は、いいところもたくさんあるのですが、もちろん悪いところもたくさんあります。残念なことに、イタリア人は人種的偏見がきつい人たちだということは認めざるを得ない部分があり(念のために書くと、日本人も人種差別という観点からは無罪ではありません)、私も単にバス停でバスを待っているだけで唾を吐きかけられたりなど、悲しい思いをしました。

しかし、今回はイタリア人自身が差別されてきたのだ、という話を書こうと思います。イタリアから外に出たイタリア系移民の話です。以下、Sergio Romano 著 “Storia d’Italia”の第四章「移民:イタリアの外のイタリア」を参考にまとめていきます。

そもそも、イタリア人はイタリア統一以前から半島の外に出る人は少なくなかったそうで、たとえば1857年のマルセイユでは、人口235,000人のうち、18,000人以上がサルデーニャ王国の人たちであり、あるいはエジプトでは1820年にはイタリア人が6,000人、1870年になると9,000人いました。さらに、オスマントルコではイタリア人は商売人としてそれなりの地位を占めており、社会的に成功する人もいたようです。彼らの優位性は何と言ってもイタリア語にありました。というのも、古くから物品の交流が盛んであった地中海世界では長らくイタリア語が通用しており、エジプトでは1871年までイタリア語が公に使われる言語の一つであったそうな。

イタリア統一後、移民は拡大の一途をたどります。1880年まではヨーロッパ諸国、とくにフランスに移民するイタリア人が多く、1880年以後は大西洋を渡る移民、すなわちアルゼンチン・ブラジル・アメリカ合衆国といった国々に渡る人が増え、これらの国には1913年だけで376,776人のイタリア人が渡ったそうです。背景としては、西欧諸国の工業の発展と、イタリア統一後の南部の貧困化ということが挙げられます。せっかく統一したのに祖国を離れなければならないという状況を思うと胸が痛みますが、しかしながらこのことはイタリアの経済・社会の発展に資したのです。というのも、移民たちの祖国への仕送りによって全体としては経済のバランスがとれ、祖国に残った者にとっても労働条件の改善になった、という側面もあったわけです。

統一後、移民したイタリア人たちには道路工事、鉄道建設、建築業といった職しかなく、彼らの苦労は大変なものでした。農業などで移民したものもいるにはいましたが、移民した南部の人々はもっぱら都市生活を好んだのです。同胞とのつながり・コミュニティを再構築できるうえ、移民する以前の労働者としての生活を可能としてくれたからです。

専門職として特に技術のない移民たちは、移民先では労働力を提供する源となりました。他方で、プロテストや騒乱の温床という側面もあり、敬遠されるような向きもあったのです。したがって、ユダヤ人居住区ゲットーのように、物理的にも倫理的にも隔離されてしまう、ということがあり、さらに言えばイタリア系移民に対する「敵意」まで醸成されてしまいます。

とりわけ米国ではこの種の偏見は根深いものがあったようです。米国はプロテスタントの国ですから、カトリックの国からやってきたイタリア人は好まれぬところでありますし、単純労働者が不満にまかせて暴れたり、あるいはイタリア人だけでかたまって生活していると、やや気持ち悪く思われるのも致し方ないところであり、同胞だけで集まる様は「マフィア」みたいだという印象を与えてしまうのもやむを得ない次第でしょう。

そこである特殊な雰囲気が生み出されてしまい、著者のRomanoは“pogrom”という強い単語を使っていて、つまりポグロムとはマイノリティに対する組織的虐殺を指すと解していいと思いますが、そういう事態になってしまったというのです。

イタリア系移民に対する風当たりがいかに強かったか。

たとえば1890年10月、ニューオーリンズで、警察の巡査長が5人の男に傷害を負わされ死んでしまった事件がありました。彼の最後の言葉でイタリア人を非難した、らしいのです。そこで、多くのイタリア人が裁判にかけられましたが、証拠不十分で無罪になる者が出ると、シチリア人漁師たちはこれを喜び、星条旗のうえにシチリアの旗を掲げたこともあったそうな。

しかし、1891年3月14日深夜、その前日出された同事件裁判における容疑者に対する無罪判決を不服とした群衆が街の広場に集まり始めてしまったのです。その音頭をとったのがウィリアム・パーカーソンという弁護士で、かれは150丁のカービン銃を配布したうえ、弁護士・医師・銀行家などの立派な市民たちによって構成されたデモ隊が刑務所に行進し、うち50人が入口に殺到、無罪となったイタリア人2名を縛り首にし、さらに9名を銃殺してしまった。英語版Wikipedia の記述を見ると、パーカーソンは「誰が陪審員を買収したんだ?」と言ってのけ「正義の失敗に対する補償が必要だ」と扇動したらしい。

Romano の記述はさらに強烈で、パーカーソンに「武器を持たない人間を部屋に閉じ込めたうえで銃殺するというのは、勇敢とは言い難いですな」と言う人がいたが、それに対してパーカーソンは「その通りだ、武器を持たないものを攻撃するのは勇気ある行いとは言えないが、しかし我々にとって連中は爬虫類も同然だ」と言ったそうです。

これに対し、イタリア王国は、街を去りたいイタリア人を祖国に帰還させるために艦船を派遣し、米国との外交関係を中断したんだそうです。

また、Romano はフランスにおける同種の「ポグロム」を紹介し、フランスからトリノに逃げてくるものが多かったのだという例を紹介をしています。

このように、イタリア系移民は、移民先で非常な困難に直面することは少なくなく、現地にあわせて名前を変えてしまうということもないわけではありませんでした。

しかし、大半のものは、イタリア系の居住区に粘り強く住みついて、文化的アイデンティティを保持したのでした。教会や食堂などが、彼らにとっての拠りどころとなったのです。

以上でRomano “Storia d’Italia”の参照は終わりですが、これに付け加えたいのは、このようなイタリア人に対する偏見・差別は、今でも決して終わったわけではない、ということです。私はもちろんイタリア人ではありませんが、特に英語圏におけるメディアのイタリア・イタリア人に対する扱いはひどく、限度を超えていると思わざるを得ないものがあります。国際的に高名な新聞でも、偏見で書かれた記事を平気で書いて、さて、訂正記事を出してくれるのかどうか。

イタリア人独特のキャラクターや、イタリア語なまりの英語など、偏見の原因となるものには事欠かないうえ、世界はグローバル化し、そのような偏見の目を通して書かれた新聞記事が一瞬のうちに広まってしまう時代です。イタリア語のようなマイナーな言語でじかにイタリアの情報に接する人よりも、英語や英語からの翻訳で情報を得る人が圧倒的に多いのは当然のことですが、しかしその英語の記事が公平に書かれているかどうかは全く別問題であり、

「イタリア人は爬虫類も同然だろ」

という視線でひどい話を平気で書いているということも、ままあるのです。

そうなると、イタリアの現実を知らない世界の人たち、英語による情報しか接しない人たちは、そういった偏見を知らず知らずのうちに共有してしまうことになっています。

イタリア人は決して手放しで賞賛に値するような人々ではありません。その反対で、本当に嫌になることがしょっちゅうある、「アホ」な人たちだと私ですら思うことがよくあります。

それでも、どの国の人、どの民族にも美点欠点の両方があるはずであって、イタリア人だったら偏見の目で見ていいというわけには決してなりません。

イタリア人を、イタリアを、もう少しちゃんと理解してほしい、理解してくれる人が一人でも増えてほしいという私の願いは、ここに根っこの一つがあるのです。

(東海)

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