ジョルジョ・アガンベン「私たちはどこにいるのか?」

前回は英国での反応を紹介しましたが、今回はイタリアの反応を見てみましょう。

今回取り上げるのは、ジョルジョ・アガンベン著「私たちはどこにいるのか?」です。https://www.amazon.co.jp/dp/4791773616/ref=cm_sw_r_tw_dp_5QJ7W9YAKMAE24BSNM6B

アガンベンはイタリア思想界の大物で、イタリアを代表する思想家の一人です。新型コロナウィルス感染症への「対策」に対して当初から一貫して批判的でした。昨年2月からブログでその批判を書き続けています。本書は昨年7月までのブログ記事やインタビュー記事をまとめたものです。

一点だけ本書を補足する必要があると思ったのは、「緊急政令 Decreto-legge」という日本にはない法制度についてです。

Decreto-legge というのは、政府が官報で布告すれば直ちに法的効力を持つという制度です。緊急の措置が必要な場合に政府が柔軟な措置をとれるので便利な制度ですが、ただし60日以内に議会が決議して正式な法律にする必要があります。

イタリア政府はパンデミックの当初からこの緊急政令を使っていましたが、実は緊急政令はパンデミック以前より頻繁に使われるようになっており、当然ながら批判も出ています。

以上が日本人向けの補足で、他はアガンベンの思想をよく知らなくても、十分に主張はくみ取れます。

まず非常に興味深かったのは、イタリアにおける死亡者数と死因についての指摘です。

アガンベンによれば、2017年にイタリアでは647,000人死んでいますが、そのうち循環器系の疾患で230,000人も死んでいるそうです。呼吸器系の疾患が死因となっている人は53,000人。

循環器系の病気で死んだ人が全死亡者のおおよそ3分の1を占めるわけですが、理由はおそらく明らかで肥満や食生活だろうと思われます。イタリア人にはとにかく肥満の人が多い。

ですので、この23万人の死者を減らそうとするならば、イタリア人の食生活に直接介入すればよいのです。塩分は一日何グラム、脂肪分は、アルコールはこれだけ、少しでもそれを超過すれば罰金刑。

イタリアはクリスマスの宴会で有名です。家族親戚が集まって、揚げ物でいっぱいの食事を腹がはち切れるほどにたらふく食べるのが恒例行事となっています。

イタリア人にダイエットさせるために、クリスマスの宴会は禁止、もしこの規則を破れば多額の罰金!

・・・笑ってはいけません。今、イタリアのみならず、日本を含めた各国政府がこの一年半やってきたことは、こういうことでした。

保健衛生を第一に考え、「バイオセキュリティ」を最優先させると、クリスマスの宴会を禁止することは認められなくてはならないのです。

いや、それはおかしいと言われるかもしれません。循環器系の病気は人にうつさないが、新型コロナウィルスは感染症だから人にうつす、と。事実、昨年のイタリアでは、感染対策の一つとしてクリスマスのパーティーはできなかっただろうと思います。

(ちなみにですが、新型コロナウィルス感染症のリスクファクターの一つは肥満です。新型コロナウィルスの脅威を煽る専門家の中に肥満の先生がいるのは本当におかしなことです)

・・・

しかし問題はこれまで各国政府がとってきた一連の「対策」が本当に有効だったのかどうかよく分からない点に尽きます。つまり、従前と同じように生活しても大して状況は変わらなかった可能性が少なからずある。

むしろロックダウンやマスクの罰金付き義務化などの極めて強力な「対策」をやればやるほど、社会的・経済的ダメージのみならず、精神的・身体的なダメージを生み出す結果になっており、「命を救うため」として導入された一連の「対策」が本当に命を救っているのかどうかを、本来であればかなり慎重に検討しなければなりません。

しかし実際には、前回も書いたように、一連の「対策」のメリット・デメリット、コスト&ベネフィットを公平に比較考量したものを各国政府とも公式には出していない。

そうすると、残るのは緊急政令によって政府に与えられた強力な権限だけです。緊急事態だからと言って導入された、その根拠が問われることになります。

この状態を本当に是認できるのかどうかを、アガンベンは執拗に問うています。

アガンベンによれば、イタリアのある法学者は、政府による一連の「対策」の違憲性を否定して、あくまでも普通の生活に戻るための一時的な措置であり、永続的に強権的な政府を存続させるものではないので問題はないと論じているそうです。

もちろん、この法学者の主張は単なる屁理屈です。普通の生活に戻るための一時的な措置だから違憲ではないという主張が正しいならば、政治家は「これはあくまでも元の生活に戻るための措置なので今だけ我慢してください」とさえ言えばなんでもできることになってしまいます。

・・・

人の命を守るためと称して、医療サイドが政府と協力してここまで人々の日常生活に介入することは一昨年前まで想像すらされませんでした。

歯を磨いて口の中の環境を整えておくことは、感染症予防にもいいことですが、歯磨きの罰則付き義務化なんて今でさえ聞いたことがありません。

でも、義務化しなくて当たり前なのです。自分の健康は自分で管理するもので、それ以上、他人に強制されるものではないからです。その「当たり前」が忘れ去られつつあることに対する危機感がもっと持たれるべきではないでしょうか。

ちなみに、日本の死因別死者数を見ると、2019年、腫瘍で376,000人、高血圧性を除く心疾患で207,000人、脳血管疾患で106,000人、肺炎で95,000人の人が亡くなっています。

他方で新型コロナウィルス感染症ではこの一年半の間におおよそ1万4千人程度亡くなったことになっています。さらに、この疾病で亡くなった人のうち4割は重い病気をすでに抱えている人であって「最後の一滴」がたまたまコロナだったにすぎないという話もあります。

「対策」の有効性が不明であることを考えると、いかに不毛なことをこの一年半やってきたのかと言わざるをえません。

・・・

他方、アガンベンのような西洋を代表する知識人が「対策」に批判的な立場をとっていることに希望を感じます。

昨年来、私たちが見てきたものは西洋の傲慢さでした。体の大きな子供がわんわんと泣き喚いて周囲を振り回しているようにしか見えませんでした。

しかも、この体の大きな子供は、すぐに他人をバカにするのです。たとえば日本に対する根拠のない、偏見に満ちた「批判」は単なる人種差別の発露でしかありませんでした。

西洋には知性が死んでしまったか、あるいは最初からそんなものはなかったのだろうと私は絶望していました。しかしアガンベンの本書に触れ、かすかな希望を感じる思いをしています。

しかし、この希望は決して力強いものではありません。愚かな混乱はまだまだ続いているからです。

この一年半、「科学」が錦の御旗としてかなり恣意的に利用されてきましたが、この混乱を止めるのは、科学の力ではありません。むしろ、科学そのものが事態を無駄に混乱させてきたとすら言えます。

その象徴の一つが無駄な検査でしょう。前回も書いたように、隔離に意味が薄いことは最初から分かっていたことで、無症状感染者をわざわざ見つけ出してきて隔離することは全くの不毛でしたが、それも科学技術の裏付けがないとこんな無駄なことはできませんでした。

また愚かしいことに、今、米国や英国では検査基準を変更し、陽性者が少なくなるようにし始めています。

検査の問題は、「科学の力」に過剰に依存するとこういうことになる、という典型です。

科学という人間の力では、自然に勝てないのです。

そのことを、欧州の知識人も分かっている、少なくともアガンベンはよく分かっている。本書を読んで、少しばかり、私も力を得たような気がしました。

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Laura Dodsworth “A State of Fear”

欧米は被害が大きかったからロックダウンも仕方がなかったと軽々に信じている人は、このイギリス・アマゾン欧州政治部門で1位のベストセラーとなっている同書を読んだ方がよい。https://www.amazon.co.jp/dp/1780667205/ref=cm_sw_r_tw_dp_16FP31B6WYYMKXJ2S231

英国は日本とは比べ物にならない厳格さでロックダウンを実施したが、市民に規則を守らせるために、行動心理学を駆使して恐怖を利用した様々な政策を行った、そこに倫理的な問題はないのかと問うている。

著者はジャーナリストであって専門家ではない。それにことの性質上、匿名情報が多く、その分、主張に強さを欠く場面がある。(もっとも、英国政府内部にも相当の不満があり、このような形で内部の情報がリークされたという可能性はあると思う)

また、英国政府が心理学者の提言をどのように具体的に政策に反映させたのか、またその政策がどのような影響を社会に与えたかを検討することは非常に難しい課題であり、この本ではそれは無理な要求だ。

しかし著者は限界について自覚しており、同書はあくまでも倫理の問題を問うものであって、今後の調査のスタート地点であって欲しいと書いている。執筆態度は一貫して真摯かつ良心的だ。

詳しい議論は読んでもらう他ないが、少しだけ書かせてもらいたい。

まず、英国で新型コロナウィルス感染症が死因になった人の平均年齢は82.3歳であり、平均寿命より1歳上なんだそうだ。また感染が多く発生しているのは、病院や高齢者施設などで、日本と大きく変わらない。

にもかかわらず、民主主義国として限界を越えるレベルにまで社会活動を規制した。疾病のリスクととられた対策のバランス、メリットとデメリット、コストとベネフィットの検討をすれば、コスト・デメリットの方が大きすぎることは明らかだ(実際、正直な調査検討をいまだ公表していないらしい)。

この過大な社会規制は「より大きな善」によって正当化されたわけだが、社会規制に人々を確実に従わせ規制に実効性を与えるために、政府は新型コロナウィルス感染症本来のリスク以上の恐怖心を人々に吹き込み、行動心理学を利用することで人々の行動を変容させようとした。

このようにして、国民の間で議論も合意もないまま、十分な説明もなされず、透明性が欠如した形で、国民は政府の指示通りに行動するようにさせられてしまうこととなった。

つまり、著者が指摘しているのは一種の洗脳の問題だと言ってもよい。

このような形で心理学を利用することに倫理的な問題は当然発生しうる。政府のアドバイザーである心理学者も倫理的問題の存在を否定していない。

しかも、メディアやネットなどを総動員した政府によるプロパガンダによって、人々の間に恐怖心が過度に浸透してしまい、抜けることが非常に難しくなってしまった。心理学者たち自身がリスクを過大に見積もっていたのだから、始末に負えない。

もっとも、このような非常に無理のある政策が本当に「より大きな善」のために有効であればまだしも、実際のところは大きな疑問符を付けざるを得ない。

ロックダウンなどの「感染症対策」が有効であったというエビデンスはなく、むしろ身体的・精神的・社会的・経済的なダメージは明確かつ図り知れないため、「より大きな善」のためという建前そのものが崩壊しているのが現実である。

実は2019年にWHOが報告した、インフルエンザのパンデミックを想定したレポートによると、休校や旅行規制、いわゆる「水際対策」、隔離などなど、当たり前のように考えられている「感染症対策」はエビデンスが非常に弱いとされていたうえ、ロックダウンのような破壊的な対策は想定されていなかった。

つまり、みな最初から分かっていたのだ。

パンデミックは以前より懸念されていたリスクであったため、英国保健省内部でも事前に対策案は練られていたものの、引き継ぎが十分に行われないまま忘れられていたり、また専門家の会議も同じ意見の人だけが集まり、異なる意見の人は排除する傾向にあるとのことで、笑えない現実が次々と指摘されていく。

救いはこういった政策に対する批判が英国にもあることで、最高裁判所の元判事が言うべきことを言っているそうだ。

つまり、被害の大きさは必ずしも対策の強度を正当化しない、「ロックダウンも仕方がなかった」という話にはなりえないのである。

著者は最後に、今後どういう社会に生きたいか、価値や理念をもっと考えないといけないと言っている。その通りだと思う。

私の健康は私の問題であり、それが他人を守ることにつながる。もし他人に病気をうつして、その人が亡くなっても、それは仕方がない。そもそも新型コロナはその程度の病気であり、その程度のリスクしかないとも言える。一昨年までは、人に何をうつそうが何も意識せず私たちは生きてきた。誰かに管理され、あるいは心理学的手法を使って選択を強制されるような形で生きるのは、私はまっぴら御免蒙りたい。

今後、デジタル化が高度に進むにつれ、自由やプライバシーの領域がますます狭くなると言われている。であるならばなおのこと、自由とは何か、自分で自分のことを決めるとは、選択するとは何かを考え直し、ここで抵抗することが肝要だろう。

これからどのような経過をたどるのか、私にはよく分からないが、ロックダウンを筆頭に、その他多くの「感染症対策」は全く無意味か、むしろ副作用が大きすぎたことはこの一年半の経緯から明らかと言ってよい。

同じ失敗を二度と繰り返さないために、本当のこと(“truth”)を直視することが必要だろう。

このような内容の書籍なので、日本語に翻訳される可能性は薄いと思うが、読みやすい英語で書かれている。私には教えられるところがたくさんあった。恐怖にかられている人にも、呆れて醒めている人にも読んでもらいたい良書だ。

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科学は命令しないー「専門家」の責任はいずこ

日本の「専門家」も、海外の「専門家」たちと同じく、信頼性を失いました。

たとえば、ある専門家は当初、「満員電車の中でもマスク着用の必要性を感じない」としていましたが、今は意見を変えています。

意見を変えるのはかまいませんが、「日本では満員電車が解消されなかったのにもかかわらず、なぜ欧米のような大きな被害がでなかったのか。本当に通勤時のマスクのみで防ぎ切ったのか」という疑問には、誰もはっきりと答えてくれないのです。

この専門家は、最初の意見のままでよくて、意見を変える必要がなかったのかもしれません。

ではなぜ意見を変えたのでしょうか。たぶん、海外(特に米国)の論調を横目で見ていたからとか、あるいは様々な大人の事情などなどだろうとは思いますが、すべて推測です。

しかし、この種のいい加減な態度は日本の「専門家」たちに一様に言えることでした。

・・・

これは日本に限ったことではありませんが、この一年間、「専門家」たちは一般の人たちに向かって「こうしろ」という命令をくり返してきました。

確かに、最初、何も分からない状況ならば、ある程度乱暴なことは許されるかもしれません。しかし、臨床医たちの努力で昨年の早い段階でそれなりの治療法ができて以降、経験は積み重ねられており、研究も同時に進んでいます。

にもかかわらず、なぜ「専門家」たちの命令が終わらないのでしょうか。

しかも、その命令の根拠は疑わしいのです。なぜ命令できるのでしょうか。

一年前、ある専門家が「飲食店はテイクアウトなどを、ミュージシャンはストリーミングをすればいい」と書いていて、驚きました。一時的にはともかく、テイクアウトやストリーミング放送が代替になるわけがないからです。いかに人間社会についてこの専門家が疎いのかに、驚いてしまったことを記憶しています。

「当然国は休業補償するべきだ」と感染症の専門家が言い出した時には、いよいよ呆れました。財政の余力に乏しく、少子化が進む日本で、少子化がますます進む政策を実行しろと言いながら、どうして感染症の専門家が国家財政の問題にまで口を出せるのでしょうか。

自分たちの命令が引き起こした結果について、いかなる責任を負う覚悟が「専門家」たちにあるのでしょうか。

批判的検証をひたすら避けている「専門家」たちの言動からは、責任感がまるで見えてきません。

・・・

昨年末、京都大学の研究グループが、Go to トラベルキャンペーンが感染を拡大させたというペーパーを発表し、メディアでも大きく扱われたことは記憶に新しいことと思います。

あの後の展開がひどかったのです。これはネットを観察していないと分からないことでした。

京大グループの研究内容と夏の人流データとを比べたときにあまりにも研究結果が不自然であったことや、ペーパーの中身の恣意性に、ネット上では大きな批判がでたのですが、

実はそもそもあのペーパーはしっかりしたところに発表したものではないことが明かになり、執筆者自身、内容そのものについても大きな留保を付けなければならないものであることを認めてしまいます。

つまりこういうことです。

Go to トラベル キャンペーンが感染を拡大させたとする内容の研究であれば、誰にでも容易に理解できるうえ、そのときはキャッチーだったので、京大のような一流大学に属する研究者が発表すればメディアは確実に食らいついて、大きく報道してくれます。

しかし、メディアが取り上げた時には、ペーパーを出したところの問題も、中身についての留保も黙っておくわけです。後になってネット上で問題点を認める。

これでは、人々の印象には「Go to トラベルは悪かった」というものしか残りません。

このような狡猾な手段を用いて、巧妙に責任を回避しつつ、世論誘導・扇動をしているわけで、研究者・専門家としての矜持や倫理はどこにあるのか、と断ぜざるをえません。

おそらく、研究者の立場からすると、似たようなことは他の研究者もやっており、自分だけ責められるのはアンフェアだ、と思うのでしょう。

しかし、社会に対する影響を考えた場合、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が通用するわけがなく、また通用させてはなりません。

・・・

この一年、科学の美名のもとで、本当に科学なのかどうか疑わしい断定がいくつもなされ、社会を動かし、人々の生活を束縛してきました。

これは科学ではないはずです。科学は安易な断定や命令をするものではないからです。

むしろ、不可解な現実を前にして一歩立ち止まり、さまざまな疑問を抱えながら、一応の答を用意しつつも、批判に向き合い、必要があれば修正をいとわない、これが科学だと私は今まで信じてきました。

世界で言われている「科学」は、これとまるで正反対です。

前回の冒頭、自殺した官僚やとんかつ屋の大将について触れました。「専門家」の皆さんが、彼らの前で一体どういう申し開きができるのでしょうか。

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欧米に追随して知性を放棄しただけの日本

前回は欧米の醜態に落胆した話を書きましたが、日本はどうだったかというと、西側同盟国の一員として欧米に追随するしかなかった日本も知性を捨ててしまった、と思います。

一年以上前、武漢から日本に帰ってきた邦人を隔離施設で世話するのに疲れた官僚が自殺したことがありました。あるいは将来を悲観して自殺したとんかつ屋の大将がいました。他にも知られていないだけで、死ぬ必要のない人たちが死んでいったはずですが、きれいに忘れられてしまったかのようです。なぜでしょう。

「感染症対策」を正当化するお決まりのフレーズである「愛する人を守るため」が、空々しく聞こえるのは私だけでしょうか。

・・・

日本を含めた東アジアでは新型コロナウィルス感染症の被害は、欧米に比べて非常に小さいです。その要因に各国政府がとった「対策」があげられています。

しかし、少なくとも日本に関するかぎり、それを疑わせる証拠はあまりにも多いのです。

たとえば、緊急事態宣言です。二回発出されましたが、いずれも、感染のピークを過ぎてからの発出であり、完全な空振りとなって終わっています。

また、現在はスマートフォンなどを通じた人流データが公開されています。このデータによると、人の流れと感染の拡大・縮小がほぼ無関係であることが明らかとなっています。

特に二度目の緊急事態宣言では、昼間の人出はあまり変化はありませんでした。飲食店を夜8時に閉めさせただけで、それほど大きな影響があったのでしょうか?

「専門家」たちこそ明確にその答えを語るべきですが、今に至るまでこの点にまともな回答がありません。

・・・

しかし、「対策」の無意味さが一般にもっとも分かりやすいのはマスクの効果です。一般的には、スーパーコンピュータによるシミュレーションや、様々な実験などなどにより、効果が証明されたことになっています。

確かに、飛沫が飛ばない点に限っては明らかですが、問題はそこではなく、マスクの着用義務によって感染がいかに抑制されたかであるはずです。ところが、この点について明確な答えが一年たってもありません。

マスク着用義務のある国・地域と義務のない国・地域の比較をすれば一目瞭然で、実際には両者に差はないか、むしろ義務のある国・地域のほうが被害が大きいように見えることすらあります。

また、メディア上ではマスクを外さざるを得ない飲食店が悪し様に言われていますが、実際は院内感染や施設内感染の方がはるかに多いのです。マスクや消毒など、いわゆる「感染症対策の基本」ができているはずのところで、なぜクラスターが頻発したのでしょうか。

プロの医療従事者たちですら、自分たちの施設の感染制御に失敗しているのに、どうして一般の人たちがマスクや消毒などなどといった単純な手段で感染制御ができているという話になるのでしょうか。

日本ではインフルエンザの患者が激減した理由は「対策」のおかげだと安易に断定されています。イタリアのニュースでも同じことを言っている専門家がいました(インフルエンザよりも新型コロナウィルスの感染力の方がはるかに強いから、なんだとか)。しかし、マスクの義務化がされていないスウェーデンでもインフルエンザの患者がいなくなったそうです。

つまり、マスクについては一般に信じられているほどの有効性がない、と考える方が現実にそうのではないでしょうか。

事実、ドイツをはじめ欧州では、普通のマスクでは効きが悪いため、最近になって、公共交通機関で日本のN95レベルのマスクをするように言い出しました。実質的に一般的なマスクが効かないことを認めているものと考えていいわけで、そこは日本よりもはるかに正直だと言えます。

ただし、N95レベルのマスクを一般の人たちが正しく着用することは難しく、また正しく着用できたとしても窒息するだけで長時間の着用は不可能です。それも当然で、医療従事者が仕事のために使うためのものだからで、そんなものを一般に推奨する方の頭がどうかしているのです。いずれにせよ、欧州の知性の放棄ぶりを示しています。

米国でも二重マスクは有効だという声が出始めましたが、全く同じ文脈にあるといってよいでしょう。

百歩譲って、マスクに一定程度の有効性があると仮定しても、問題点について何の検証もなされていません。

一般の人たちはマスクを正しく使用できないので不潔を極めているし、酸素と二酸化炭素のバランスに問題が生じる場合もあるでしょう。また、身体面のみならず、精神面の影響も考えるべきです。マスクをしているだけで息苦しく、ストレスを感じる人がいるのは当然で、そういう人たちへの配慮がなさすぎます。

とりわけ、子供に長時間にわたってマスクをつけさせることは、児童虐待です。子供の健全な成長に影響を与えるからです。

効果・副効果の十分な検証がないものを、日本の場合は実質的な義務(欧米の場合は罰則付きの義務)とすること、それ自体が大きな問題だと言わざるをえません。

これはマスクのみならず、他の「感染症対策」のほぼすべてに言えることです。効果と、身体的・精神的・社会経済的影響とのバランスを批判的に検証したことが、これまで一度としてありません。

科学的な根拠が怪しいものを「感染症対策」であると一方的に断定し、無理矢理社会に押し付けて、その結果の検証はしないか自画自賛するのみ。疑問を持つ者は、反社会的存在として、メディア上で何を言われても構わない対象とされる。

ファシズム・全体主義ではないかと考えうる理由がここにあり、この方法を採用した欧米を、日本も追随した格好になっています。

・・・

日本でもメディアに出てくる「専門家」たちに信用がおけないことについては欧米と同じでしたが、これについては項を改めます。

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欧米に知性はあるかー日本人としての私の落胆

私はイタリアにいたためもあり、また生来の音楽好きもあって、ヨーロッパと何かと縁がある人間ですが、この一年間、本当に落胆させられました。

まず、欧米人のアジア人差別の問題を深く痛感させられました。

当初、欧米では、新型コロナウィルスの制御はアジア人だから失敗したので、自分たちは制御可能だと考えられていました。

ダイアモンド・プリンセス号という客船の対応をめぐって、欧米メディアが苛烈な批判を日本に向けていたことを覚えておられると思います。当時は、彼らにとって新型ウィルス騒ぎは全くの他人事だったのです。

また、ヨーロッパの音楽学校に通うアジア人が授業を忌避されるといったような差別がニュースになっていましたが、当初より、アジア人差別が問題だった、と言えるでしょう。

ところが、ふたを開けてみれば全く話が違ってしまい、欧米の被害が大きくなります。その後、知性がどこかに吹き飛んだような話を海外紙などで見るような日が現在に至るまで続いています。

彼らは、感染状況が制御できているかのように見えるアジアの真似をしようとロックダウンと呼ばれる都市封鎖や、マスク着用の罰金付きの義務化などなどの「感染症対策」を次々と行っていきました。

これらの「対策」には世論の支持があったので行われたのですが、市民は決まってこう言いました。

「ルールに従って規律のとれる中国人や韓国人、日本人と違って、自分たちは自由勝手なバカな奴が多いから、感染状況が制御できない」

こうして政府はどんどん締め付けを厳しくしていき、市民サイドも嬉々としてこの状況を受け入れていきます。しかし、そもそも中国人や韓国人や日本人が、上の言うことをひたすら従順に聞いている民族であるわけがありません。それは全くの偏見です。

実際、特に日本では、欧米に比べてはるかにゆるい「感染症対策」が実施されたのにもかかわらず、大きな被害がでていないのですから、そういった民族性の問題は全く無関係のはずです。

ところが、彼らにはそれが分からない。

それどころか、彼らが支持してきた「対策」は、ロックダウン、マスク等々、ほとんどが科学的根拠の薄いものばかりです。コンピューター上でのシミュレーションは、現実とは違います。一年たっても「対策」の効果や副効果について批判的な検証がまともに行われたような話はありません。自画自賛に終始しています。

実際のところはというと、様々なデータの比較や分析がネット上には上がっていますが、「対策」が感染状況を改善した傾向は薄いか、全くない、あるいは逆効果だった可能性すらあることを示唆しているようにしか思われません。

新型コロナウィルスは、風邪を引き起こす他のコロナウィルスの一種であり、他にも風邪を起こすウィルスやインフルエンザウィルスは多くあります。インフルエンザや風邪を、都市封鎖やマスク、ワクチンによって完全に撲滅できる、あるいはそこまで言わなくても制御ができると信じて生活していた人が昨年の1月まで地球上に存在していたでしょうか?

もしそんなことを本気で主張したら、すぐに頭がおかしい人だと思われたに違いありません。

ところが、今は全く話が逆になっています。

なので、「対策」に批判が出て当然なのですが、ところが「対策」への批判的な声を、欧米メディアは無理やりに封じ込め、「専門家」たちの語る一方的で科学的根拠の薄い話だけを垂れ流してきたのが実態です。

つまり、偏見に基づいた政策を、無理やり推し進め、批判的な声も封じた結果が今の欧州や米国の様々な州の現実である、ように私には見えます。

これに対して、全体主義とか医療独裁、医療ファシズム等々といった非難の声が上がっていますし、少なくない医療従事者も批判しています。もっともなことです。

自由や基本的人権といった、西欧社会が築き上げてきた理念を、欧米がいとも簡単に放棄していく姿を、私は本当に呆れて見ていました。

どうして彼らは、こんなに愚かなことを次々と行ったのでしょうか。今後、どんな顔で基本的人権を世界に訴えるのかと思っていたんですが、欧州は堂々と基本的人権を掲げて他国に関与しており、「恥知らずにも面の皮が厚すぎる」という印象を持たざるを得ません。

もちろん、言い訳はいろいろできます。たとえば、欧米は確かに被害はアジアに比べて大きかったので、パニックになったのはもっともだ、という優しい見方は可能です。

しかし、パニックになった彼らは、自分たちの「対策」こそが人々の命を救う唯一の処方箋であり、これに反対したり、あるいは異なる対策を行う人や国は、人間の生命を軽んずるがゆえに倫理的に間違っている、劣っていると一方的に断定し、自分たちの「対策」を押しつけ、批判し続けました。

実際は、彼らの「対策」が間違いかもしれないのです。その検証が今こそ必要なはずです。ところが、あまりにも強く彼らの正しさが信じられてしまったために、「対策」の批判的検証が不可能になっています。

これには、米国の大統領選挙や欧州各国の政治状況とも密接な関係があります。イタリアでも、政府・与党には新型コロナウィルス感染症の流行を政治的に利用しようという意図が明白であったように思います。政治的にも、今さら自分たちが間違いであった(かもしれない)とは、到底認められる話ではありません。

パニックになったことが言い訳になるとは思われないし、言い訳にしてもいけません。

・・・

問題は、新型コロナウィルス感染症に対する対応に限定しないと考えています。

つまり、欧州や米国の知性が崩壊した、あるいはもともと欠落していたのではないか、という疑惑です。メディアの一方的な態度は容認されるものでは到底ありませんが、しかしメディアも「専門家」たちの意見を受け売りしていたにすぎません。

問題の根っこの一つは欧米の「専門家」たちの知性や責任感なのではないでしょうか。社会を支えるはずの「専門家」たちがそもそも崩壊していたのではないでしょうか。

感染症という一分野の「専門家」の信用性が疑われるのに、どうして他の分野の「専門家」が信用できるのでしょうか。

あるいは、専門は異なっていても、まともな知性があれば上に書いたようなことは誰でもすぐ分かることです。今は昔と違って様々なデータをすぐに見ることができ、それを解析してくれる賢い人たちがネットでいくらでも情報を上げてくれます。どうして、知性水準の高いはずの人たちがもっと批判の声をあげなかったのでしょうか。

上に「全体主義」「ファシズム」という言葉を使いました。20世紀前半の歴史を勉強している歴史家であれば、現在の状況は容易に100年前の人類の失敗へと連想が働くはずで、またそうでないとおかしいのです。なぜ歴史家はもっと強い発言をしなかったのでしょうか。

アジア人差別から話を始めましたが、その反省は本当に彼らにはあるのでしょうか。

この一年間、どうして知性のかけらもヨーロッパやアメリカから見えなかったのでしょうか。

そして、さらに大きく言えば、ここまで醜態をさらした欧米が、本当に自由や平等、基本的人権などなどの自由主義国家にとって重要な理念をまだ語ることができるのか、そしてそういう欧米は私たち非欧米人にとって信頼に足る存在なのか。

そういう問題ではないかと思います。

・・・

では、こういった現実に対して、西側自由主義国家の一員である日本人の私たちはどのように向き合えばよいのでしょうか。

私にはとても容易に答えが出せない問題であり、少しずつ考えようと思っています。

ただ、新型コロナウィルス感染症対策については、もっと日本の現実に沿った対策が行われるべきであり、そのような説明が対外的にもなされるべきだろうということだけは確信しています。

 

(追記)

三部作になったので、あとの二つの記事も読んでください。

http://takinstitute.com/wp/?p=327

http://takinstitute.com/wp/?p=333

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小中高校生の君たちへ 

君たちは、今、大人たちがおろかなために、大変な目にあっています。それがどれだけ大変かは、すぐに分からないかもしれません。

でも、いずれ、君たちにもそのことが分かった時、つまり大人たちはとんでもなくおろかで自分のことしか考えていないこと、大人たちが君たちの信頼を裏切ったことが分かった時、君たちの中にはきっと怒る人もいると思います。

怒ってください。いや、怒らないといけない。怒るのが正しいし、当たり前なのだから。

大人の一人として、私は君たちに心から謝ります。ごめんなさい。君たちのために、なにもできませんでした。とてもはずかしいです。

でも、同じことを絶対にくり返してほしくないから、ささやかなお願いを書かせてほしいのです。お願いは、たった二つです。

お願いの一つ目。まず、勉強してください。

小学校の算数が分からない大人、日本語でも長い文章になると分からなくなる大人はたくさんいます。

君たちはそんな大人になってはいけません。勉強してください。君たちはいずれ一人で生きていかなければいけません。その時、学校で勉強したことは生きるための武器になります。

ただ、勉強できることだけでは十分ではありません。

君たちは、台所の包丁を見たことがありますか?包丁を使っておいしいごはんを作ることができます。おいしいごはんを食べると、自分もまわりの人もうれしいですね。でも、包丁で人をきずつけることもできるでしょう。

勉強は包丁のようなものです。

勉強で身につけたことも、上手に使えば人のためになりますが、下手に使うと人をきずつけることができるのです。

包丁でおいしいごはんを作るように、勉強したことを使うようにしてください。自分もまわりの人もしあわせになるにはどうすればいいか、いつもいつも考えるようにしてください。

これがお願いの二つ目です。

もう一度、二つのお願いを書きます。まず、勉強すること。そして、勉強したことを自分もまわりの人もしあわせになるように使うこと。

でも、君たちの中には、勉強なんて大きらいだという人もいるでしょう。なんでこんなに面白くないことをしなくてはいけないんだろう、テストの点も悪いしって。

そういう人は無理に勉強することはありません。

でも、自分とまわりの人を大切にしてください。自分だけを大切にする人はわがままです。でも、まわりの人ばかり大切にするとつかれてしまいます。自分も、まわりの人も、どちらも大切にしてください。勉強なんかより、ずっとだいじなことだと私は思います。

あとは、お友だちとたくさんあそんでください。もしお友だちがいなくても、鳥や花、川や海や山や、、、まわりの自然がお友だちになってくれるでしょう。わたしのお友だちは、いつも音楽でした。音楽だって親友になれるんですよ。

長くなりました。もう終わります。小学生にも分かるように書いたので、中学生高校生の中にはバカにされているように思う人もいるかもしれない。そういう君たちには、もっとむずかしい言葉を使うだけで、同じことを書いていたでしょう。

君たちが立派な大人になって、今の大人と同じまちがいをくり返さないでほしいと、心から願っています。Good Luck!

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学校の再開を真面目に考えませんか

姫路市内の学校は5月末まで休校するそうですが、直ちに学校を再開しろ、と言いたいわけではありません。また、遠隔授業をしているので、学校が休校するしないは私にとって経済的には全く関係ありません。

ただ、子供たちのことについて、そろそろみんなで考える段階ではないかと思っています。

長文になるので要点をまとめましょう。

(前置き) 日本は比較的良い状況だ
  例年、肺炎で毎日300人から400人程度亡くなっている

(理由)

 1 子供が感染してもほとんど命に関わりない

 2 一斉休校は感染抑制策として比較的効果が薄い

 3 年齢が高い方がウィルスを排出しやすい

 4 子供たちが勉強しないことの大きな損失

(結論) 学校再開を真剣に検討すべきだ

・・・

新型コロナウィルスの流行に伴う緊急事態宣言が出されてから、3週間がたちました。

封鎖をしていた海外では、封鎖の解除が始まっており、それに伴い学校の再開をどうするかという話題も出てきました。

日本は、ヨーロッパや米国よりもはるかに良い状況です。手洗いやマスク着用などの衛生に対する意識や、国民皆保険といった医療制度、医師らの高い医療技術に日本は恵まれており、またさまざまな幸運もあって、今のところ、重症者・死者の数は非常に小さく済んでいます。

どの程度、日本社会の中に感染が広まっているかの調査ができていないので、そこはよく分からないわけですが、重症者・死者の数が少ないことは間違いありません。

また、世界各地で行われている検査の結果から、想像以上に感染が広がっている実態が徐々に明らかになりつつあり、致命率が下がる可能性が高くなっています。

もちろん、新型コロナウィルスに対する免疫というものを人間がいまだ持っておらず、そのため医療体制への過度の負担を私たちがかけ続けることは、断じて避けなければなりません。

しかしまず、「日本の状況は比較的よい」という事実を確認したいと思います。

そして日本では例年、毎日300人から400人程度の方が、肺炎で亡くなっています。そのことを念頭に置くべきです。

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その上で、小中学校、高等学校の再開をそろそろ真面目に検討したほうがよいのではないかと考えています。その理由をいくつか書いてみます。

理由1 子供が感染してもほとんど命に関わりない

子供が感染してもほとんど命に関わりがないということはデータで出ています。ですので、「子供たちの命を守る」ために学校の休校をするということに、どの程度意味があるのか、大変に疑問です。

もちろん、風邪のような症状の子供は登校を見合わせるべきなのは言うまでもないことですが、しかし子供の命に関わるリスクは何も新型コロナウィルスに限ったものではありません。

運動会の組体操で、あれだけ事故が多発しながら、それでもなかなか危険な演技をやめなかったことを思い出すと、いかにも判断がアンバランスです。

 

理由2 一斉休校は感染抑制策として比較的効果が薄い

これも研究が出ています。感染者の隔離やいわゆる「ソーシャル・ディスタンシング」には大きな効果がありますが、それと比較すると新型コロナウィルスについては学校の休校は効果が薄いとされています。

無論、地域によって感染状況が異なるでしょうから一概には言えないでしょう。

子供たちがおじいちゃん・おばあちゃんに会うことを控えることが必要になってくるかもしれませんが、しかし一斉休校が感染拡大の抑制にどの程度効果的なのか疑問です。

 

理由3 年齢が高いほうがウィルスを排出しやすい

これもデータで出ています。

話が脱線しますが、子供たちにマスクを着用させることの是非も、もう一度考えた方がよいと思います。

一般用のマスクは大人・子供問わず、感染の予防にはなりません。ただ、もし感染しているのに発症していない場合、新型コロナウィルスは発症前から感染力を有するかもしれないということで、症状がなくてもマスクをつけた方が飛沫の拡散を抑制できるかもしれないということだと理解しています。

ただし、マスクにウィルスが浸み出す例が報告されているらしく、また洗浄するとは言いながら繰り返し使用することの方が多いわけで、マスクそのものが不潔であるというリスクが軽視されているのではないかと思われてなりません。

さらに子供の場合、なかなかマスクを正しく装着してくれません。また、あちこち触った手でマスクを頻繁に触りますし、そのついでに顔にも触れます。

つまりマスクを着用したほうが子供にとってはリスクがより高いかもしれないのです。

こういう点も、合理的に考える方がよいのではないでしょうか。

 

理由4 子供たちが勉強しないことの大きな損失

私が一番心配していることはこれです。

残念ながら日本では、大学を除いて、遠隔授業はあまり行われていません。学習塾のなかには遠隔授業を行っているところもありますが、そういう塾にどの子供も通えるわけではありません。

休校の期間が延びれば延びるほど、子供たちの勉強しない時間が増えます。そうすると、子供たちはそれまで勉強したことを忘れます。

また、遠隔授業を行っている海外の学校でも、さまざまな問題が指摘され始めています。遠隔授業ではどうしても指導が行き届かないからです。

パンデミックはいずれ終わります。しかし勉強は一生の宝です。その機会をみすみす失わせることがあってはなりません。

日本よりも状況がはるかにひどい欧州各国では学校が再開していくようです。現在の日本の状況では「勉強より命の方が大事」という議論には、どう考えてもなりえません。子供たちにとって、この病気で死ぬことよりも、将来のさまざまなチャンスを失う可能性の方がはるかに大きく、それは子供にとっても、私たちの社会にとっても大きな損失です。

衛生に注意しながら、勉強をし、同級生や先輩後輩としっかり遊び、頭も心も身体も健全に育つこと、それこそが子供たちにとってより重要なのではないでしょうか。

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私はそう考えます。

せっかくの長期のお休みです。こんなことも少し考えてみることも必要ではないかと思います。

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遠隔授業を開始します

新型コロナウィルスの流行に伴い、外出自粛が長期になる見込みとなっております。

そこでイタリア語ラボ&進学塾でも、遠隔授業を始めることにしました。

SkypeやZOOMなどの無料のアプリケーションをインストールしていただければ、すぐに始めることができるので受講される方にとっても簡単です。

早速、イタリア語のレッスンをやってみましたが、いろいろ不都合はあると思いますが、そこは徐々に改善していくのでご容赦いただくとして、案外できるものです。

イタリア語のレッスンは文法を中心としたものだけではなくて、イタリアオペラのディクションの指導なども行っております。

音大生の方、趣味で歌われる方などにとって有益ではないかと思いますので、この機会に是非お勧めします。

詳細は下記までご連絡ください。

イタリア語ラボ&進学塾
代表 東海岳史

電話番号 090-3704-7330
メールアドレス tohkai78?gmail.com  (?の代わりに@)

 

 

 

 

 

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姫路市立小学校での教諭による暴力事件について

姫路市のある小学校で、新人の担任を指導する巡回教諭が「体罰」をしたとして、大きなニュースになりました。全く他人事ではないので私なりに情報を集めましたが、問題は3点あると考えています。

1 指導を名目とした、女子児童に対するセクハラ行為

報道によると、その巡回の教諭は、道徳の授業中、姿勢を正すためにその女子児童に触れたということになっています。

報道だけだとその程度が分からないわけですが、私の子供時代を思い出しても、また今の子供たちに聞いてみても、そんなことをする先生というのはまずいないでしょう。

つまり明らかにセクハラをやっていたわけですが、報道ではセクハラという点があまり強調されていないように見受けられます。しかし、話の発端であるはずのセクハラ行為がそもそも大きな問題であることは指摘しておかなければなりません。

2 セクハラを目ざとく指摘した男子児童に対する暴力

セクハラを目ざとく見つけた男子児童が「嫌がっとるやん」などと教諭に言うと、廊下に連れ出されて暴力行為を受けたようです。

つまり、痛いところを突かれた大人が逆上して暴力行為に出ているわけです。

なお、問題の教諭はもともと女子には大変に甘く、男子には厳しかったという話もあることを付け加えておきます。

3 新人の担任への責任転嫁

姫路市の責任ある立場の方が、今回の問題は新人の担任に責任があるかのような発言をしたということも聞いています。

しかし、どう考えても責任は巡回の教諭にあり、担任にないことは、報道されているところからでも明白です。

むしろ、担任は被害者です。指導される立場の人が、はるかにキャリアが上の人の行為を注意したり、まして校長などに言うことはできません。そういう立場・状況を、巡回の教諭は悪用して、児童に対してセクハラや暴力行為を行っているようにしか思われず、さらに言えば今回露見した一件のみならず、あちこちの学校で同様のセクハラを繰り返していた可能性も容易に推測されるわけで、つまり事は一層悪質と言わざるを得ません。

ですので、なぜ担任に責任があるかのような発言が姫路市から出てきたのか、理解に苦しみます。

これはさすがに看過できないため、私は姫路市と姫路市教育委員会に対して、発言の趣旨を明確にするための質問のメールを出しましたが、今のところ返事はありません。

(12月24日追記)

姫路市教育委員会より、返信がありました。ここに返信への感謝を表します。

(12月25日追記)

姫路市より返答を得ました。感謝いたします。

双方のメールによれば、姫路市の人物による発言は担任に事実の確認・説明を求めるものにすぎず、責任を求めたものではない、ということですが、保護者説明会に参加した複数の保護者の意見ではそうではなく、「あれは(担任が)ちょっとかわいそうだった」というコメントまで得ています。

行政に責任ある人の軽はずみな言動はよろしくありません。しかし、一定の軌道修正はなされたもの、と受け止めてよいのでしょう。そういうことであれば、少なくともこの点についてのみはひとまず良かったと思います。

ただし、ここには書きませんが、その他の点については大いに異論がありえます。教育委員会がどういう対処をするか、年末年始の諸行事に関わらず、注視していきたいと思います。

(追記終わり)

以上の3点が、この事件の主要な問題点だと言えるでしょう。

その上で、責任ある者の適正かつ公平公正な処分と、再発防止策の徹底を教育委員会に求めなければなりません。現状、教育委員会としては、事実の収集と確認をしている段階でしょうが、今後の展開を注視したいところです。

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運動会はもうやめよう 学校行事廃止の論

運動会や音楽会の類はもうやめればいいのではないかと考えていますが、次のニュースを見て、改めてそう思いました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191220-00000075-asahi-spo

神戸市教委、組み体操を全面禁止に 小中学校で事故多発

体育行事での組み体操について、神戸市教育委員会は20日、市立小中学校での実施を来年度から全面的に禁止することを決め、全校長に通知した。練習中の事故の多さを危ぶみ、久元喜造市長が中止を求めていたが、市教委側が応じず、その後、骨折6件を含む51件の事故が起きていた。

組み体操の禁止は、この日開かれた市教委定例会議で、5人の教育委員が全員賛成して決まった。多人数による大技の「タワー」や「ピラミッド」だけでなく、肩車や倒立、ひざの上に立つ「サボテン」など2~3人で取り組む技でも事故が起きているため、全面禁止に方針を切り替えた。

市教委は、組み体操に代わって子どもたちが一体感を得られる演目の例として「ソーラン節」や、隊形を組んで前後左右に動く「集団行動」などを挙げた。

組体操の危険性はかねてより指摘されているところであり、近年ますます危険なことをやるようになっていることが危惧されていたのは周知のところで、神戸の教育委員会が、市長の指摘もあって(市長に言われないと考えない教育委員会もどうかと思いますが)、組体操をやめることにしたのはいいことです。

しかし、組体操の代わりとして挙げられているものが、

「ソーラン節」「集団行動」

であることに、ゲンナリしました。

そもそもですが「子供たちが一体感を得」ることにどれほどの意味があるのか、私には全く理解できません。子供たちはそれぞれ人格が違うのであって、にもかかわらず学校のクラスで一体感を得るとすれば、それは宗教やファシズムめいたものになるよりなく、想像するだけで気持ちが悪くなります。(実際、「集団行動」などというものは、軍事教練の名残り以外にいかなる意味があるのでしょうか)

それぞれの人格を、その子にあったように伸ばすことが、教育なのだろうと思います。「一体感」なるものの醸成にどういう意味があると先生方がお考えなのか、大変に心もとないです。

私の塾に来るある小学生は、ある先生が自分が担任するクラスを「ファミリー」と自称するのを、バカにして鼻で笑っていました。もっともなことだと思います。

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学校は勉強するところです。勉強が苦手な子供のために、勉強以外に打ち込める場を提供することに全く意味がないとも思いませんが、しかし運動会や音楽会の準備のために、授業時間を相当に削らないといけないわけで、それだけの意味がこの種の学校行事にあるとは私には到底思えません。「一体感」の問題一つとっても、意味不明なのですから。

授業時間をそんなに削るんだったら、その時間を授業・勉強に充てるほうがいいに決まっています。それが理の当然です。

運動会・音楽会などの学校行事は早々に廃止すべし。これが私の考えです。

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